学校教育について多くの話題を伝えているメルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さん。今回は“教える”ということが軽視・敬遠されがちな現状で、教師は教えることとどう向き合うべきかについて語っています。
学びの主体は子ども、授業の主体は教師
前号で、教えるということへの価値の見直しについて書いた。教えることが軽視、敬遠されがちな現状を憂えている。
『授業力&学級経営力 2024 10月号 子どもに「教える|任せる」の境界線」』P.11(松尾執筆)の冒頭及び文末を引用する。
1 学びの主体は子ども、授業の主体は教師
昨今、自由進度学習なども脚光を浴びており、教師の「教える」という機能は低く見られがち、かつ遠慮がちになっています。
はっきりと言いますが、これは完全な誤認です。皆さん、目を覚ましましょう。世間の流行に流され、すぐ翻る言説に翻弄されているようでは、到底物事の本質を掴むことはできません。
そもそも、この雑誌を読んでいること自体、自分の知らないことを他者に教わっているという姿勢のはずです。そうでなくては意味がありません。
(中略)
「子ども主体」といえど、その言葉に寄りかかって授業の準備をしないのは職務怠慢です。あくまでも教師が授業の主体であるという気概をもって、子どもたちが主体となって学べる環境を整え、必要な指導を堂々と躊躇なく行っていきましょう。
自由進度学習の存在自体はいいのである。時と場に応じて必要である。ただ、それは決して万能ではないということである。
先日出演した「ABEMA Prime」でも同様の話をしたが、みんながみんな自由を求めている訳ではない。
(参考:「ABEMA Prime」EXIT兼近「多様化は教育を難しくさせるのでは?」一元管理は限界?必要な学びとは)
否、むしろ、多くはクリエイティブを求められるより、決められたことをきちっと行う方がいいと考えている、というのが経験的な実感である。
誤解を恐れずに言い切れば「聡明なリーダーに、正しい判断を下し、命じて欲しい」と思っている人が大半ではないか、ということである。(ちなみに、真逆は最悪である。愚鈍な形だけリーダーが、誤った判断をし、ぐずぐずして命令もできないし責任もとらない、という状態である。)









