令和初となり、1,150年目の節目を迎える今年の祇園祭。「京都祇園祭の山鉾行事」は世界遺産にも登録されていますが、この祭礼の歴史についてはどれくらいのことをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、祇園祭の成り立ちや山鉾について詳しく紹介しています。
祇園祭の成り立ち
今年の祇園祭は令和初、そして1,150年目の節目を迎える記念すべき年です。今回はまず祇園祭の大まかな概要と今月に入ってこれまで行われてきたメインの行事をご案内します。
祇園祭は毎年7月に行われる八坂神社の祭礼です。歴史は古く平安時代前期869年にまで遡ります。
その昔全国で疫病が蔓延していました。また、貞観地震や富士山の噴火など全国的に天災が相次いだ時期でもありました。人々はこれらを牛頭天王(ごずてんのう)の祟りとして恐れました。
牛頭天王は釈迦が生まれたインドの祇園精舎の守護神とされています。また牛頭天王は日本神話に登場する素盞嗚尊(スサノオノミコト)の同一神とされていて、八坂神社に祀られている神様で神道と仏教が混じりあって生まれた習合神であるとされています。
当時の人々はこの天変地異や疫病を鎮めようと、神泉苑で当時の国の数と同じ66本の矛(ほこ)を立てて、祇園社の神輿を神泉苑に奉納し、疫病退散を祈る御霊会(ごりょうえ)を行いました。これが祇園祭の起源だといわれています。
矛を立てる、神輿を奉納するという本来の形は現在前祭(さきまつり)23基、後祭(あとまつり)10基ある山や鉾(山車のようなもの)と17日に行われる神幸祭、24日に行われる還幸祭の神輿神事に受け継がれています。
神泉苑
神泉苑は平安京遷都とほぼ同時期に造園されました。二条城の南に位置し、元は平安京の大内裏に接して造営された禁苑です(天皇のための庭園)。江戸時代、徳川家康によって面積は縮小されましたが、かつては南北約500m・東西約240mの広大な庭園だったようです。
平安時代初期、干ばつが続いた時に朝廷は西寺の守敏と東寺の空海に雨乞いを依頼しました。ライバルの二人は祈雨を競いましたが、空海が善女龍王を呼び寄せると、3日間に渡り国中に大雨を降らすことに成功し勝利しました。それ以降季節を問わずどんな日照りの年にも神泉苑の池は涸れることがなくなったことから善女竜王が住むといわていています。
ちなみにこの雨乞い合戦により東寺は栄え西寺は守敏とともに廃れていったと言われています。
この神泉苑の池に架かる法成橋には恋愛成就のご利益があるスポットとしても知られています。なぜならこの橋は源義経と静御前がはじめて出会った場所だからです。