リオデジャネイロパラリンピックの女子ブラインドマラソンで見事銀メダルを獲得、その笑顔で日本中にチャレンジする尊さを教えてくれた道下美里さん。しかしそこに至るまでには、知られざる苦悩の道のりがあったといいます。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、道下さんの「銀メダルまでの道」を辿るとともに、彼女が心の支えとしている「ある方の言葉」を紹介しています。
パラリンピック銀メダリスト道下さんを支えた言葉の力
2016年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックで初めて正式種目に採用された女子ブラインドマラソンで、見事銀メダルを獲得した道下美里さん。
どんな逆境に遭っても、決して諦めることなく立ち向かってきたその姿に、いまたくさんのエールが送られています。
致知随想 道下美里(ブラインドマラソンランナー)
道下さんが初めて目に違和感を覚えたのは、小学校4年生の時だったといいます。
初めて右目に異変が見つかったのは、小学4年生のこと。その後、原因も分からぬままに視力は徐々に落ち、中学2年生の頃には0.1に。医師の勧めに応じて行った数度の手術も空しく、右目は完全に光を失ってしまったのです。
それでも左目を頼みに高校、短大を卒業した後に、働きながら調理師免許を取得したのは、将来、レストラン経営を夢見ていたからでした。
しかし、残された左の目にも病魔が忍び寄ってきます。
残された左目に、右目と同じ異変が見つかったのは20代も半ばに差しかかった頃でした。すぐに医師の診断のもと手術に臨んだものの、術後に目を開くと、擦りガラスをとおして見るような状態になってしまったのです。
完全に光を失ったわけではありませんが、そうなっては一人で外出することもままなりません。未来に希望を描くこともできず、自分が生きている意味を一人自問自答する日が続きました。
母親の勧めで入学を決めたのが、同じ境遇の人たちが通う盲学校でした。最初は不安でいっぱいだった道下さんでしたが、その不安だった心を元気にしてくれたのが学校にいた仲間たちだったのです。
周囲の人たちとうまく関係を築いている盲学校の仲間から学ぶ中で克服できたことも多くありましたが、自分に素直になれたことで人間関係に悩むことも徐々になくなったように思います。
一方、チャレンジ精神旺盛な仲間たちに刺激され、スキューバダイビングなど新しいことにも挑戦しました。あれもできない、これもできないと失うことばかりだった青春時代を過ごしてきただけに、盲学校に入ってからの3年間は、何かを取り戻そうと必死だった自分がいたのです。
盲学校で陸上競技を始めた道下さんは、どんどん実力をつけ、遂にはフルマラソンにチャレンジ。遂にはパラリンピックの舞台に立てるまでになられたのでした。