日本書紀や古事記にも出てこない富士山が日本一の山になった理由

 

今でこそ、富士山を知らない日本人はいないと思いますが、富士山の知名度が高くなったのは、やはり鎌倉幕府以降のことであったのかもしれません。登山する山として、また、皆が身近な憧れとして富士山を意識したのは、江戸時代になってからのことのようです。考えて見れば、都が奈良や京都にあった時代に、未開だと考えられていた東国に人々が出向くということはほとんどなかったことと思います。

例えば、日本書紀や古事記において、東国の話が最初に登場するのは、日本武尊が東国の平定に向かう時です。駿河に至る、と書かれた文章の中に出てくるのは、野に火を放たれ殺されかけたのを、迎え火を燃やして逃れたという話です。焼津の語源になったという話ですが、富士山については一言も触れられていません。「一富士二鷹三茄子」などと言うのも、江戸時代以降の話であったようです。

平安時代の貴族は、知識として富士山の存在は知っていたのかもしれませんが、東国に赴任でもしない限り、生涯に渡って富士山を見る機会はなかったでしょう。そういう人々にとって、富士山は想像の中での存在であったでしょうから、美しさとは別に、神秘や恐怖のイメージを膨らませて行ったようです。今でこそ、富士山は休火山として、ただただ存在していますが、平安時代には何度が大爆発を起こすとともに、常に煙を吐いている山でした。

竹取物語に出てくる「富士」の由来

皆さんもよく知る竹取物語では、月に帰るかぐや姫が「不死の薬」を置いていきます。この薬は帝に渡されますが、かぐや姫のいない世界で不死であっても意味がないとして、富士山の頂上でこの薬を燃やすように命じます。この時、士をたくさん連れて山に登ったことから、士が富んだ山という意味で、富士山と命名されたということが書かれています。不死だからフジかと思うのですが、そうではないと物語は言います。

不死の発想と、富士とが被るのには理由があります。ご存知のように司馬遷の「史記」の中には、始皇帝に申し出た徐福が不老不死の薬を求めて東海に漕ぎ出たと書かれています。一度失敗し戻ってきますが、最後は戻らなかった徐福ですので、結末は不明なはずですが、釈義楚という人が「義楚六帖」という本の中で以下のように述べています。

「東北千余里に山有りて、富士と名づけ、また蓬莱と名づく。その山峻にして三面これ海。一朶上聳(いちだじょうしょう、一塊りでそびえる)して、頂に火煙あり、日中に上より諸宝の流下するありて、夜は即ち却りて上る。常に音楽聞こゆ。徐福此に止りて、蓬莱と謂う。今に至りて子孫皆秦氏と日う。」

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