日本書紀や古事記にも出てこない富士山が日本一の山になった理由

 

火を噴く高峰は、人を寄せ付けない厳しさがあったと思いますが、それに反して、聖徳太子が登ったという伝説があります。彼が27歳の時、甲斐国が献上した愛馬である黒駒に乗って、その飼育係であった舎人の調使麻呂(ちょうしまろ)とともに、富士山頂上に至り、信濃、越後、越中、越前を経て都に戻ったとされています。確かに、現在でも富士山頂の一つに駒ヶ岳という場所があります。これは、聖徳太子の伝説からつけられた名前なのだそうです。

この聖徳太子の話は、藤原兼輔の「聖徳太子伝略」に書かれているのですが、どう考えてもこれは出鱈目です。900年代に書かれた書物ですが、この時は富士山も活動を休止している状態であったのかもしれません。ただ、馬で登るなどあり得ない世界です。

平安時代の貴族である都良香(みやこのよしか)は「富士山記」の中で次のように述べています。「相伝ふ 昔役の居士ありて、その頂に登ることを得たり。後よじ昇る者、皆額を腹の下につく」ここでいう「役の居士」とは役小角(えんのおづの)ことで、役行者と呼ばれた修験道の開祖です。「額を腹の下につく」とは、額を山腹につけると言うことです。現代風に言うと、さしずめ山肌にキスをしたと言うことになるのでしょうか。

役行者は7世紀の人です。彼が、本当に富士山に登ったかどうかはわかりません。葛木山で修行を重ね呪術を習得した彼は、60歳を超えてから、人々を言葉で惑わしていると言う讒言により伊豆大島へ島流しになります。この時、人々は、昼は伊豆大島にいて、夜は富士山で修行していると言い伝えたのです。彼もまた、実際には富士山には登っていないのかもしれませんが、昔は富士登山の吉田口に役行者堂があり、役行者の坐像が飾られていたのだそうです。

print
いま読まれてます

  • 日本書紀や古事記にも出てこない富士山が日本一の山になった理由
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け