飯塚叩きが示す日本人の劣化。なぜ高齢ドライバー問題の本質を見誤る?

 

「罪を憎んで人を憎まず」が通じなくなった日本社会

さて、このメルマガでしか書いたことがないので、どういうわけか知らないが、ネット上で、89歳の暴走運転をした加害者に同情的な発言をしたら、「イイヅカにかわいそうと言うキチガイ精神科医がいる」ということになっているという。

頭のおかしい人間に「キチガイ」と言われることは正常という意味だから喜ばなければいけないのだろうが、やはり気分は悪い。

編註:今日の人権意識に照らして不適切と思われる表現がありますが、取り扱っているテーマや文脈から差別意図はないものと判断し原文を尊重しました)

日本には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。

もともとの出典は論語ではないかとされているが、基本的には属人思考をいましめたいい言葉と思う。

現実に殺人事件を起こすような犯罪者の多くは、もともと粗暴な人ではなく、恨みのようなものをため込んで凶行に及ぶことが多いという。

だから犯罪者の人となりについて、近所の人などにインタビューをすると、「まさかこんなことをやるとは思えなかった」というような答えが多い。

ふだんからガラを悪くして発散できるような人のほうが本当に殺人はしないのかもしれない(DVやサディズムはエスカレートして人殺しをすることもあるからそうとも言い切れないが。私の知り合いにもサディストの被害者がいて、社会的地位を利用して、逃げられないようにしていたようだ。本当に殺されなくてよかったと思うが、そのサディストはエスカレートして刑務所にぶち込まれないと反省しないだろう)。

やはり罪を憎むのは当然であっても、人を憎むのには慎重になってしまう。

最近、虐待サバイバーの人の支援のようなことをしているのだが、児童虐待を受けた人が児童虐待をしてしまうような虐待の連鎖や、そういう人が凶悪犯になるというような場合、やったことの残酷さは憎むことができるが、つい加害者にも同情してしまう。

この国は、虐待された子供が殺されると、ものすごい同情を受け、加害者の親がメタクソに断罪されるが、その子が生き残った場合の心のケアはかなり乏しいし、その子が大人になってからのケアは皆無に近い。そんな中で犯罪に走ってしまうとボロクソにたたかれる。

永山則夫のころは同情の世論もあったが、今のテレビのコメンテーターは浅薄な人間がそろっているので、そういうものがまったく感じられなくなった。

少なくとも、暴走事故を起こした老人はわざとやったわけではないだろう。結果が陰惨だし、被害者の気持ちもわかるが、加害者だって、あの事故がなければ平和に老後を送りそのままお迎えを待つことができたのだろうから、やはりかわいそうだと思ってしまう。それも言えなくなる社会とすれば、むしろそれが哀しい。

私はテレビは完全に干され、ラジオもパーソナリティに嫌われて出番がものすごく減ったが、言いたいことは言い続けるつもりだ。

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