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【第13回】猫は死期を悟って「最期の挨拶」をするって本当? 春日武彦✕穂村弘対談

死が訪れるのは人間ばかりではありません。それは動物も同じ。しかし、人間が死についてセンチメンタルなものを抱いてしまうのに対して、動物はリアルな体験として死ぬだけで、そこに特別な感情はなさそうです。なぜなのでしょうか?精神科医の春日武彦さんと歌人の穂村弘さんが今回は動物の死について考察していきます。

春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」

第10回:死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。春日武彦✕穂村弘対談
第11回:なんでいつもこうなるんだ…人はなぜ、負けパターンに縛られるのか?春日武彦✕穂村弘対談
第12回:SNSの追悼コメントで自己アピールする人ってどう思う? 春日武彦✕穂村弘対談

過去の連載一覧はこちら↓

 動物は「死」に恐怖するか?

穂村 この対談連載で繰り返し話してきたけど、僕はこれまで死んだ人を目の当たりにしたことがほとんどないし、「死」というものがどうにもイメージできないんだよね。同様に、僕はペットを飼ったことがないので、人だけでなく、動物の死もまたよく分からない。

例えば犬や猫はさ、まわりで飼っている人に聞くと、最後の瞬間にお別れの挨拶をすると言う人が一定数いる。それって、そこに「感情」とか「意思の疎通」を見ているわけだよね。先生は、今家にいるねごとちゃん(春日先生の愛猫)の前にナルトって子を飼っていたでしょ。どうだったの?

春日 あの猫はね、呼吸がどんどん荒くなっていって、あるタイミングで「次の呼吸が来るかな?」と思ったら来なかった、という感じの最期だったよ。でも、あの時間もなかなかしんどいものがある。

ゼーコラゼーコラ言ってて苦しそうだし、いっそ楽にしてやりたい気持ちもあったりするからさ、「止まったか?」と思ったらまた呼吸したりすると、「よかった」と同時に「ああ、まだか」とも思ったりするしね。最後の挨拶みたいなロマンは、残念なことになかったなあ。

穂村 言語を持たない彼らには、ただ身体的な苦しみがあるだけで、恐怖は一切ないのかしら。

春日 どうなんだろうね。人間でもナルトみたいな死に方は結構あるけど、あの状態ではもはや苦痛も恐怖もないと思う。身体だけが、まだオートマチックに「生」にすがりついているだけで。人にせよ猫にせよ、仮に意識が残っていたとしても、「もう面倒だな」って思っているだけじゃないのかな。

穂村 人間の場合、「死」の苦痛よりも恐怖の方が圧倒的に大きいような気がするんだよね。でも見ている限り、動物には天敵への本能的な警戒心とかはあるけど、「死」そのものへの恐怖はなさそうだし、どこか無頓着に思えるんだよ。

〈片脚のなき鳩ありて脚のなきことを思わぬごとく歩きぬ〉(島田幸典)って短歌があるんだけど、事故で後ろ脚を失くして車状の器具で支えている犬を見た時も、元気に遊んでて自分のそんな状態を気にしているようには見えなかった。

春日 たぶん悲しみはないよね。こちらは切ない気持ちに駆られるけど。

穂村 自らの運命に何の疑問も持たず、ただ受け入れているというか。そういう完璧な受容みたいなものを「格好いいな」と思いつつ、僕たち人間には言語があるから、怪我をする前の自分と比較して嘆いたりするでしょ。どうしても運命を悲観すると思うの。

〈動物は何も言わずに死んでゆく人間だけがとてもうるさい〉(木下龍也)って短歌もあって、人間だけが言葉を持っているから、自分が死ぬことを理解する。動物はただ今ここの体験としてリアルに死んでゆくだけ。

春日 動物って、基本的にそんなに死を怖がらないと思うのね。と言うのは、個別性というものがそこまでないわけだから。特に虫なんかがそうだけど、種全体として1匹みたいな感じがある。

穂村 虫とか爬虫類は分かるんだよ。例えば、ワニが別の動物と闘っている動画とか時々見るんだけど、彼らは命を懸けて必死なくせに、時々「え?」みたいな動きをすることがある。まだ闘いは終わってないのに急に静止したりして、「今だよ今! そこでやらないとお前やられるぞ」って思ったりさ。どこかメカっぽいんだよね。それは、ある意味戦闘に対して最適化されているがゆえの動きなんだろうけど、でも、やはり死の観念がないからこんな動きになるんじゃないかと思えてきて。

でも犬や猫は、失敗したら誤魔化そうとするとか言うじゃん。あるいは、猫は嫉妬するとか、死期を悟る、みたいなことも。それってもはや言語的作用に近いことに思えるんだよね。もしかしたら「自我」に近いものを持っているんじゃないかな、って。

春日 確かにね。言語こそ持たないにしても、感情の有無みたいなところに関しては、微妙なところがあるかもしれない。だけど猫が自分の死を目前に「最後の挨拶」をしたとしても、たぶん永遠なんてものを理解してはいない。そのあたりで、我々のほうがセンチメンタルなものをひたすら一方的に膨らませているんだと思うよ。

「エサ」じゃなくて「ごはん」

穂村 ペットと言えばさ、昔、猫を飼っている人に「エサは何をあげてるんですか?」って聞いたら、「ごはん」と言い直されたことがあったんだよ。最初は意味が分からなかったけど、「エサ」って言葉も使わなくなりつつあるんだね。

春日 ああ、ペットというより、家族という意識が強くなっているんだろうね。

穂村 という話を、大昔に猫を飼っていたという父にしたら、「エサをやるなら飼ってる意味がないだろう」という言葉が返ってきて、さらにびっくりした。つまり父の中では、猫を飼うのは当然ネズミを捕らせるため、ということになっているんだよね。

春日 愛玩動物的な発想じゃない、と。

穂村 まあ、父が猫を飼ってたのは戦前の話だからね。ネズミ対策という目的があって、猫はその手段みたいな感じで、ご近所同士で貸し借りなんかもしたらしい。さすがに、2020年現在ではかなり通じにくい話だと思うけど。番犬って言葉も今は死語かなあ。

春日 確かにね。エサって言わない、ペットじゃなくて家族、みたいな話で行くと、いまや犬が服着ているのとかも普通だもんね。むしろ、着てないと「裸なんですね」とか言われちゃったりするらしいよ(笑)。冬なのに寒くないんですか? って。いや、毛皮があるだろ、って話なんだけど。田舎の方は分からないけど、都会は完全にそんな感じだよね。

穂村 犬用のデザイナーズ服とかありそうね。

春日 でもさ、服着てても生殖器丸出しで、あのへんの整合性は飼い主の中でついているのかねえ。クマのプーさんとかもそうだけど、あれ、人間だったら変態だからね(笑)。

穂村 お尻が可愛いから隠したくないのかな?

春日 単純に、下半身覆っちゃうと排泄できないからじゃない? 自分では脱げないわけだしさ。

穂村 あ、いや、プーさんのほうだけど。うーん。どうもリアリズムの設定がよく分からない。そんな感じが行くところまで行くと、そのうち動物用の精神科医なんかも生まれてくるかもね。そうだ、春日先生、世界初の動物の精神科医になればいいじゃん。

春日 ドリトル先生だね。

穂村 そうか。あ、でも、すでにいそうな気がする。セレブを顧客にしたりしてさ。

春日 儲かるだろうね。絶対に自由診療(注・保険外診療のこと。値段は医者が自由に設定できる)だろうし(笑)。

「活きのいいロブスター」と「生きているロブスター」

穂村 一方で、同じ哺乳類でも、牛とか豚みたいに食用にされることの多い動物は微妙なラインだよね。短歌だと〈番号を耳にかゝれてうごめけり信号まちのトラックの豚〉(弘津敦子)とか〈トラックの牛はよぎりつ街中を吸込むやうな瞳のこして〉(石塚令子)みたいになる。つまり、食べるために命を奪うことに微妙な後ろめたさを持っていながらも、家畜は「人間の側」にはいないという認識だね。

春日 つまり、感情を持たない存在、ということだよね。感情を持った家畜なんてものは、擬人化されたマンガに過ぎない、と。

穂村 はっきりと感情移入の対象になっている犬や猫とは違うよね。残酷だという意識はあるけど、豚も牛も食べてるし……みたいな微妙な後ろめたさが、我々にそうした短歌を詠ませるんだと思う。

春日 家畜に関しては、俺は基本的にはどうとも思わないんだけど、時々牛や豚が「今まで育ててくれて、どうもありがとう」みたいなことを言うフィクションがあるよね。

穂村 牛の肥育や養豚業の人に? だって彼らは売るために育てたんだからさ、感謝する必要なくない?

春日 それはそうなんだけど、飼い主も情が移ってくるわけじゃん。で、躊躇してるとさ、向こうの方がちゃんと悟ってて「今までどうもありがとう。大丈夫だよ」みたいに言ってくれて、飼い主が、延いては読者が「ううっ」ってなるみたいなのは定番じゃん(笑)。

もちろんそんなのファンタジーだって分かってるんだけど、妙に文章の上手いヤツの手にかかると、その手の内を分かった上でも、なんかグッときちゃうんだよね。

穂村 僕は北海道出身なんだけど、父は屯田兵の孫世代で、生家は貧しい農家だったんだよね。で、家では馬とか牛とか豚とか鶏とかを飼ってて。前に聞いたことがあるんだけど、同じ家畜でも種類によって名前を付けるものと付けないものとがあったらしい。付けるにしても、せいぜい「●●号」とか「●●丸」くらいにしておいて、距離感が縮まり過ぎたり、情が移り過ぎないようにしていたみたい。

春日 食用にしづらくなっちゃうもんね。ふざけたつもりで馬や牛に服を着せたりしたら、冗談どころではない罪深い行為になってしまうんだろうなあ。

穂村 しかしさ、我々はそんな時代から比べて、どんどんひ弱になっていると思うよ。昔、ロブスター屋みたいなところに行ったら、テーブルまで「こちらを供させていただきます」みたいにウェイターさんが料理するやつを持ってくるじゃない。

春日 こんなに新鮮ですよ、ってね。

穂村 ハサミをぐるぐる巻きにされてさ。ああいう時のロブスターって、怒ってるように見えるから怖いんだよ。「俺を食う気か!」みたいな。頼むからやめてくれよ、その儀式いらないから、って思ったもん。こっちは何の罪悪感も持たずに、ただ美味いものを食いたいだけなのに、そんなことされたら食べづらくなるじゃん。

でも、その時に「生きたロブスターを目の前に持ってくるなよ」っていうのは卑怯なわけでしょ。生き物を食べるのに殺生の部分を見ないようにしたい、ということだから。

春日 お店の人にしたら、お客に喜んでもらおうとしているだけなんだろうけど。

穂村 でも、あれを見ちゃうとさ……。ロブスターからしたら「お前が俺を食うなら、お前の手でやれ!」「このハサミのぐるぐる巻きを取れ! 正々堂々と勝負しろ!」みたいな気持ちでいるんじゃないかと考えちゃう。そこで僕も「よし、やってやる」みたいに応えるべき……みたいなことが、生きたロブスターがテーブルに出された瞬間に脳裏に浮かんでくるから、もうすべてが嫌になってしまうんだよ。

春日 食べる気が失せちゃうのね(笑)。たんなる食材の筈なのに、それが処刑前の捕虜みたいな存在になっちゃう。

穂村 「活きのいいロブスター」は嬉しい。でも、「生きているロブスター」はイヤなの。以前、家に生きたカニが送られてきたことがあって、僕も妻もそんなものを料理した経験がないから、どうしたらいいか分からなくなってしまったんだよね。

とりあえず熱湯に入れるんじゃないか、という話になって、そうしたんだけど、その途端「ギャア!」みたいな声が聞こえた気がして怖くなってしまった……。で、その日は駅前にラーメン食べに行っちゃったんだよ。

春日 目の前にカニがあるのに、ラーメン(笑)。

穂村 次の日か、その次の日くらいに、ほとぼりが冷めるのを待ってから食べたんだけど。とにかく、その日は無理だった。

春日 穂村さん、絶対呪われたよ。ひひひ。

穂村 そういえば昔、アナウンサーの滝川クリステルさんと対談したことがあるんだけど、彼女は動物愛護の活動を熱心にしているんだよね。だから、当日着ていく服をどうしようか、けっこう悩んでさ。毛皮とかは絶対ダメそうでしょ? まあ、そんなの持ってないけどさ。

ただ革靴は履くじゃない? でも、革靴の人なんていっぱいいるわけで、それにいちいち怒ることはないだろうと思ったんだけど、実際のところは分からないから。結局、履いて行って、当日正直に聞いてみたんだよ。「今日ちょっと心配なことがあって……」って。そしたら、まあ笑ってくれてたけど、内心は分からないよね。

 

殺生も排泄も見えない未来

穂村 「肉食べて革靴履いてミルク飲み生きた牛には近づかぬ我」(岩間啓二)って短歌もあるけど、とにかく豚とか牛とかを、もともと僕らと同じ生き物であると意識することなく一生食べ続けるというのは、冷静に考えるとなかなかすごいことだよね。それこそ、カニとかなら僕みたいな経験はあり得るけど、今だと鶏もまずなくて、魚介類がせいぜいじゃない?

春日 肉はプラスチックトレーに載せられてスーパーで売られているもの、というイメージが大きくなってしまって、元は生き物だったという現実に想いを馳せられない子どもが増えた、なんて話も聞いたことがあるよ。ま、俺もコンビーフの缶に描かれている牛の絵とピンク色の中身は感覚的にまったく結びついていないけど。

穂村 投稿されてくる短歌をたくさん見ていると、そうしたメンタルの変化が分かるよ。自然や生命からどんどん離れていく感じ、というか。例えば〈私の排泄物が私より遠くへ旅をする新幹線〉(奥村知世)。乗っていた新幹線を降りた後も、自分の排泄物だけが時速280kmで博多に向かって突き進んで行く、みたいな内容の歌。

ここで詠われているのは、つまり違和感なんだよね。自分の出したウンコを目の当たりにすることなく、しかもそれが高速で移動してゆくことの不思議。もちろん持ち帰れって言われたって困るんだけど、なんか変だなっていうのは感じるわけだよね。「いや、そこまでしてもらわなくても」みたいなさ。少なくとも、昔はこういうことはあり得なかったわけでしょ。

春日 昔はそのまま列車の下に垂れ流していたもんね。だから、普通に線路上とかに見えたもの。

穂村 うん。昔は、家も汲み取り式のぼっとん便所が普通だったから、目にするのは当たり前だったし、匂いも強烈だったよね。というような記憶がある自分たちがまだ生きているから、今はきっと過渡期なんだよ。違和感が完全にはなくなっていないから、こうした短歌が生まれるわけだけど、いずれそれも消滅する時が来るはず。やっぱり、未来的には自分の排泄物は限りなく目にしなくなるんじゃないかな。

春日 そうやってウンコを見ないことに慣れてしまった人が、下水処理システムが詰まって逆流したら、そのショックはすごいだろうね。湯気が立つほど生々しいのだから。

穂村 耐性がないからね。「死」にも、そういうところがあるかもしれない。僕なんかがその例だけど、ほとんど触れてこなかったから、いざ目の当たりにすると思考停止状態になってしまう。

春日 茹でたカニを目の前にして、ラーメン食べに行っちゃうくらいだから(笑)。

穂村 食べ物と排泄は入口と出口の話だから、辻褄が合ってるんだよね。一度も殺さず、一度も排泄物を見ない——それって、つまりは限りなく「自分が生命体である」という実感から遠ざかることだと思うのね。

確か絵本作家のミロコマチコさんが、何かで「自分のウンコを見るのが楽しい」って言ってたような記憶があるけど、それは生を確認する行為でもある。でも、僕たちの社会は、確実にそれとは逆行して進んでいる。その根底にあるのは「死の忌避」なんじゃないかな。

春日 うん。でもさ、昨今は癌なんかで余命半年とか医者は平然と告げるようになった。告知しないと、逆に訴えられるらしいんだよね。死に至るまでの人生スケジュールが立てられなくなったじゃないか、って。

オレなんか絶対に告知なんかされたくないんだけど、死というものが原稿の締切に近い受け取り方をされるようになってきている印象がある。死の矮小化と言うべきなのかな。

しかしその一方、死体はますます「おぞましい」ものとして存在感を増している気がするんだ。孤独死なんかがどんどん増えているし、事故物件なんて言い方もすっかりポピュラーになった。異物としての死体が妙にリアルになって迫ってくる。

映画やドラマに出てくる死体も、ますます精緻でグロになっているし。事故死を目にすれば平気でスマホで撮ろうとする人も増えている。あれは不謹慎というよりは御祓いに近いんじゃないのか。微細なドットに分解しちゃうんだから。

生命体という認識を抹殺したい願望が蔓延しつつあるのはその通りで、ひたすらクリーンで無機質な方向に行きたがる。意識や記憶はどうやらコンピュータに移し換えられそうだから、腐ったり老化する肉体なんか鬱陶しくなるんだろうね。

そうやって二進法の世界に逃げ込んで生命の曖昧で不完全な状態から目を逸らしたつもりが、コンセントが抜けた途端にすべて雲散霧消――虚しいねえ。

(第14回に続く)

春日武彦✕穂村弘対談
第1回:俺たちはどう死ぬのか?春日武彦✕穂村弘が語る「ニンゲンの晩年」論
第2回:「あ、俺死ぬかも」と思った経験ある? 春日武彦✕穂村弘対談
第3回:こんな死に方はいやだ…有名人の意外な「最期」春日武彦✕穂村弘対談
第4回:死ぬくらいなら逃げてもいい。春日武彦✕穂村弘が語る「逃げ癖」への疑念
第5回:俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」
第6回:世界の偉人たちが残した「人生最後の名セリフ」春日武彦✕穂村弘対談
第7回:老害かよ。成功者が「晩節を汚す」心理的カラクリ 春日武彦✕穂村弘対談
第8回:年齢を重ねると好みが変わる? 加齢に伴う「ココロの変化」春日武彦✕穂村弘対談
第9回:俺の人生ってなんだったんだ…偉人たちも悩む「自己嫌悪な半生」 春日武彦✕穂村弘対談
第10回:死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。春日武彦✕穂村弘対談
第11回:なんでいつもこうなるんだ…人はなぜ、負けパターンに縛られるのか?春日武彦✕穂村弘対談
第12回:SNSの追悼コメントで自己アピールする人ってどう思う? 春日武彦✕穂村弘対談

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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年生。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。著書に『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎)、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)、『老いへの不安』(中公文庫)、『様子を見ましょう、死が訪れるまで』(幻冬舎)、『猫と偶然』(作品社)など多数。
穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。90年、『シンジケート』でデビュー。現代短歌を代表する歌人として、エッセイや評論、絵本など幅広く活躍。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。歌集に『ラインマーカーズ』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、エッセイに『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』など多数。
ニコ・ニコルソン
宮城県出身。マンガ家。2008年『上京さん』(ソニー・マガジンズ)でデビュー。『ナガサレール イエタテール』(第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品)、『でんぐばんぐ』(以上、太田出版)、『わたしのお婆ちゃん』(講談社)、『婆ボケはじめ、犬を飼う』(ぶんか社)、『根本敬ゲルニカ計画』(美術出版社)、『アルキメデスのお風呂』(KADOKAWA)、『マンガ 認知症』 (佐藤眞一との共著・ちくま新書) など多数。

漫画&イラストレーション:ニコ・ニコルソン
構成:辻本力
編集:穂原俊二
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