追悼・古賀稔彦。平成の三四郎の心を強くした「両親の謝罪」とは

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「平成の三四郎」と謳われ、豪快な一本背負いで知られた柔道家・古賀稔彦さん。不屈の精神力でこれまで何度も逆境を跳ね返してきた古賀さんですが、がんに斃れ帰らぬ人となってしまいました。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』は今回、現役時代の苦悩や柔道家としての覚悟などを古賀さんが語った貴重なインタビューを再録。そこから見えてくるのは、彼の誠実で真っ直ぐな人間性でした。

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夢と希望をありがとう 追悼 「平成の三四郎」古賀稔彦さん

バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した柔道家の古賀稔彦さんが2021年3月24日、お亡くなりになりました。様々な苦難、逆境に屈せず、金メダルを獲得した姿は多くの人たちに感動と希望、勇気を与え、引退後も指導者として多くの後進を育て上げられました。

古賀さんのご冥福をお祈りし、弊誌にご登場された記事を配信させていただきます。


男子柔道71キロ級の日本代表として送り出された、1988年のソウルオリンピックのこと。20歳にして初の五輪切符を手にした私は、優勝候補と目されていたのですが、蓋を開けてみれば3回戦でまさかの敗退。あまりの悔しさにただ呆然として試合会場を後にしました。

日本に帰国すると、私を取り巻く環境が驚くほど一変していました。成田空港から出発するまではマスコミで散々取り上げられ、「頑張れ頑張れ」と声援を受けていた私が、一転して誹謗中傷の的となったのです。

「古賀は世界で通用しない」「あいつの柔道はもう終わった」など、なぜそんなことを言われなければいけないのかとただただ憤慨するばかりでした。そして気づけば、私の周りからは潮が引くように誰もいなくなったのです。

自分はオリンピックの大舞台で負けて悔しい思いをしているのに、なぜそのことを誰も理解しようとしてくれないのか。もう人間なんて誰も信用できない。この時、私は人間不信になってもおかしくないくらいに激しく気持ちが落ち込み、とにかく人目につくのが怖くて、自分の部屋に閉じこもりました。

そんなある日のこと、何気なくつけていたテレビの画面に、オリンピックの総集編が流れ始めました。番組では華々しく活躍する選手たちの映像とともに、惨敗だった日本柔道の特集も組まれており、3回戦で敗退した私の試合も映し出されます。

ところが次の瞬間、画面に釘づけになりました。なぜなら私が試合に負けた直後、カメラが観客席で応援していた両親を映したからです。

おもむろに立ち上がった両親は試合会場を背にすると、日本から応援に駆けつけてくれていた人たちに向かって、期待に応えられなかった私の代わりに深々と頭を下げていました。もちろん、私にとって初めて見る光景です。中学で親元を離れてひたすら柔道に打ち込み、ほとんど顔を合わせることがなかっただけに、久しぶりに見た両親が謝っている姿に私は大きなショックを受けました。

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