現代のことばにも通ずる「鬼」のイメージ
最近の俗語として「鬼かわ(いい)=すごくかわいい」「鬼うま(い)=すごく美味しい」「ベルが鬼鳴ってる」なども、こうした流れをうけたものと考えられます。「超」の程度が増したものを「鬼」と表現しているのです。
一方で「神ってる」「神アプリ」などのことばもあります。「神」が「陽の神」で、「鬼」が「陰の神」という対称的なものでありながら、超絶するものを「神」とする意識は、共通するものかもしれません。
「大きい」という意味も含まれ、「鬼アザミ」「鬼ユリ」「鬼ヒトデ」「鬼ヤンマ」など、動植物の形状を表すことにも使われています。
もともと「角が生え人を食らう「鬼」という想像上の妖怪を指すことばではありませんでした。いわゆる「おに」は、仏教の六道の一つ「餓鬼道」に描かれる「餓鬼」が、そのイメージです。前世で我欲をむさぼり、金や食べ物を独り占めした欲深い人間が、餓鬼となり、常に飢えた状態に置かれるというのです。
「飢え」から見た鬼滅
『鬼滅の刃』で描かれる鬼は、「飢えた状態」が具現化されたものと言えます。ここで描かれるテーマ一つは、「家族への飢え」です。家族のなかで認められなかった者の劣等感、嫉妬、羨望、妬み。これらのマイナスの気が「鬼(き)」として、形を持ったものとして描かれています。
上弦の壱となった鬼・黒死牟(こくしぼう)は、超すに超されぬ双子の弟・縁壱(よりいち)への思いが描かれています。
「お前になりたかったのだ」
「人を妬まぬ者は運がいいだけだ」
黒死牟は、その劣等感を数百年も持ち続けているのです。
家族に対する思い
一方、鬼を退治する「鬼殺隊」のメンバーが幸せな家族に恵まれたかというと、そうでもないのです。主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)こそ、愛情あふれた家庭環境にあったように描かれていますが、同期の嘴平伊之助(はしびらいのすけ)、我妻善逸(あがつまぜんいつ)が同様の環境で育ったとは言いがたいのです。
煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は、元鬼殺隊に所属していた父との亀裂を味わっていたし、不死川実弥(しなずがわさねみ)は、鬼の支配する家に生まれ育ち、逃げ出したところを煉獄杏寿郎に救い出された過去を持ちます。栗花落(つゆり)カナヲは、虐待にあって売られるところを胡蝶カナエ・しのぶの姉妹に救われたのです。カナヲは、虐待にあって感情もことばも判断力も失っています。
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