的はずれな働き方改革に意味はあるのか?現役教員が明かす「リアルな教育現場」

asian senior male calculus professor is writing on blackboard in the classroom at college
 

次に話題を変えて、各種手当について。これも完全に的外れであると感じている。

ここは手当が増えれば嬉しいだろうという単純な構造ではない。給与自体が倍増するというような劇的な変化でない以上、大した効果は生まないどころか、逆効果にもなりかねない(そもそも教員を志すような人の多くが最初から求めていたのは、そこではないはずである)。

ここについてはよく指摘されているが「残業手当を増やすということは残業を認めるということ」でもある。つまり、よりよい対価を支払われるのだからもっとがんばれということにもなり得る。

私は部活動指導がないので直接関係ないが、休日に4時間以上部活動指導をすると一律3,600円が支給されるという。4時間「以上」で初めて支給され、一日中だろうが同じ「一律」の金額である。この金額を「多い」と感じる人は少数派だろう。自分が実際に毎週のように指導してみれば、そこがより顕著になるはずである。そして部活動指導は、時給換算のアルバイトでは決してない。

そこでもし「税金からきちんと支払われてるんだからもっとがんばれ」と言われたら、相当やる気をなくすのでないかと推察される。休日を返上してまで部活動に情熱を注いでくれている(あるいは仕方なしにでもがんばってくれている)教員が主として求めているのは、そこでないことだけは確かである。

なぜこれら「奉仕的」教育活動に対してお金で解決が良くないのかというと、お金という存在自体がその対価として見合わないからである。例えば、気持ちよくボランティア活動をしている人々に対し、時間や成果に応じてお金が支払われたら、かなりの違和感である。やるせない感じと、やる気が一気に失せること必至である。部活動指導の対価として求めているのは、そこではなく、学びや満足感、充実感など、知的な面や感情的な面の方である(あるいは義務感でやっている場合、きちんと休日ぐらい休ませてくれという切実な思いの方である)。

ちなみにこの考え方には、基になる参考文献がある。

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』近内悠太著 ニューズピックス

贈与というのは、資本主義的な交換の原理、ギブアンドテイクの原理と根本的に違う。その考え方では、贈与という行為と折り合いがつかないのである。

この本を読むと、我々の仕事の「やりがい」と呼ばれるものの真の正体は、贈与であると考えられる。それが将来誰にとってどう役立つのかはわからないし見届けられないが、それが後で「役に立っていた」と感じる瞬間がある。しかも、その瞬間がいつ来るかも、あるいは来ないかもわからない。加えて、その鍵を握っている主体は、贈与を与える側ではなく、受けとる側である。

それでも、信じて、ひたすらやる。教員の仕事の本分は、まさにここにあるといえる。

やりがいは、それをやること自体に価値を見出しており、その対価を求めないのである。「やりがい搾取」という言葉があるが、真のやりがいは他によって搾取されない。なぜなら、心の底からやりたくてやっていることの場合は、周りがどんな意図であれ、絶対に他に「やらされていない」からである(例えば大好きなゲームやマンガに没頭している時、「やらされている」「読まされている」と感じている人はいないだろう)。

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