スバルに受け継がれる、東洋最大の飛行機会社を作った男の遺志

 

飛行機の国産を目指す

明治40(1907)年、海軍機関学校を卒業した知久平は、少尉候補生として巡洋艦「明石」での実務練習についた。その後、様々な艦への異動を命ぜられながら、少尉中尉と順調に昇進していったが、その間にも飛行機の研究は怠らなかった

明治43(1910)年、ロンドンで開催される日英博覧会の視察に巡洋艦「生駒」が派遣されることとなり、ちょうど「生駒」に勤務していた知久平は、この時とばかり、フランスの航空界を視察することを上官に願い出た。この頃は、フランスが飛行機開発の最先進国であり、アンリ・フェルマンが4時間6分で184キロを飛んで、速力と距離の世界記録を更新していた。

艦長は知久平の願いを聞き入れ、マルセーユ入港後、行方不明として視察に行き帰国途上で復艦せよ、という大胆な許可を出した。知久平も大喜びで「行方不明」となり、フランスの飛行機会社の機体工場や発動機工場を見学して、無事、マルセーユで帰艦した。

帰国して間もない頃、陸軍の徳川好敏大尉がフランスから輸入した飛行機で3.2キロを飛びこれが日本最初の飛行と認められた。知久平の飛行機熱に対して、同僚たちが「徳川大尉が飛んだと言っても、フランスの飛行機だ。日本が自分で飛行機を製造するにはまだ相当の時日がかかる」というと、知久平はこう答えた。

日本が日清戦争で清国の海軍を破った時、国産の軍艦はほとんどなかった。しかし、日本海海戦では国産の「明石」「須磨」が活躍し、その後、戦艦に近い巡洋艦として、「筑波」「生駒」も呉の海軍工廠で建造されるようになった。我が国の造船能力は日進月歩で、これは飛行機にも当然言えると思う。日本海軍にも国産の飛行機が採用され、勇壮な戦隊を組んで、敵の戦艦戦隊を空から攻撃する日もそう遠くないとおれは思う。
(『飛行機王 中島知久平』豊田穣 著/講談社)

飛行機開発に着手

こうした言動から知久平の名は海軍で有名になっていった。一中尉の分際で、飛行機で戦艦を雷撃するなどと夢のようなことをいう飛行機狂としてだったが。

しかし、陸海軍の中で飛行機に対する関心は少しづつ高まり、知久平は29歳にして、海軍機の国産を目指して新設された飛行機造修工場の主任に任命された。知久平は大正2(1913)年7月、海軍最初の国産水上飛行機を完成させ自身で試験飛行を行った

翌年、第一次大戦が勃発すると、中国・青島のドイツ軍要塞攻撃に、飛行機からの爆撃を試してみようということで、4機の水上機を運搬船に乗せて近海まで運び、クレーンで海面に降ろして発進させた。4機は49回出撃して、約200発の爆弾を落とし、うち6発は確実に要塞に命中したということで、初戦としてはまずまずの成果を得られた。

その後も知久平は飛行機の開発を続けた。特に、今までの飛行機のほとんどがエンジンを後部につけた方式であった所を、知久平は前部につけた牽引式を考案しその後の航空界はこの方式が主流になっていった。知久平の先見の明が窺われる。

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