廃業寸前からの快進撃。老舗家具メーカーの社長が変えた職人意識

 

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廃業寸前の危機を救った~業界異端児の職人革命

岡田が目をつけたのは飛騨産業にもともとあった技術だという。それが「曲木」という木材を曲げていく技術。板を曲げることで、例えば椅子の背もたれの部分を作っていく。

なぜ木は折れないのか。実は曲げる前に木の状態に合わせ高熱の蒸気で蒸している。木の繊維を軟らかくしておくことで、折らずに曲げることができるのだ。

曲木のメリットを、岡田は「切ってつなぐと弱くなる。曲木は繊維が全部通っているから丈夫なんです。そして木の無駄がない」と言う。

岡田はこの曲木の技術を進化させて武器にした。その象徴が「ヤナギチェア(スペシャルモデル)」(36万7200円)。デザインは日本を代表する工業デザイナー柳宗理だ。

岡田はこの肘当てと背もたれの部分を一枚の板で作って見せた。使ったのは46ミリという極厚の硬い楢。曲げるのは不可能と言われてきた。しかし敢えて挑戦し、専用の機械まで作り、1年半かけて成し遂げたのだ。「曲木をここまで極めたのは世界でも飛騨産業だけだと言う。

一方で岡田は、腰痛持ちが喜ぶ腰に優しい商品も開発した。「SEOTO-EXソファ」(44万8200円)。「今までだと体重を点で支えていたのを、面で支えることで、腰の負担を軽減しています」(東日本営業部・岡本康宏)と言う。特殊なスプリングを使って座面を沈みにくくし、背もたれの腰に当たる部分を出っぱらせている。一般に、立っているときの背骨の状態が腰にはいいとされているが、このソファならそれに近い背骨のラインが維持できる。結果、腰の負担が軽減できるのだ。

保証の面でも10年間の保証という日本初の取り組みが。買った商品を普通に使っていて壊れた場合、10年間はタダで修理してくれる。

長く付き合ってもらう家具だから、アフターフォローも充実させた。修理工房で作業に当たる阿多野弘二は木工一筋44年になる。この日、直していたのは椅子。40年間使い続けたもので、座面が割れたので直して欲しいと送られてきた。すると阿多野はその座面をカンカンと割り始めた。

「1か所しか割れてないけど、確認したら全部割れました。ここまでしないと、1~2年たてば他のところが割れるから」(阿多野)

依頼された部分だけでなく全体をオーバーホール。再び組み直す際には足や背もたれにグラつきが出ないように補強する。修理が効かないパーツは新たに作ってしまうここまで徹底的な修理で料金は購入価格のおよそ3分の1。決して安くはないが、新品同様に生まれ変わる。

このサービスは客を喜ばせ、感謝の手紙も多数、届いている。「昔の、若い頃の自分に会ったようで、少し恥ずかしく、またとっても嬉しくなりました」「今日、新品同様に元気な姿になって帰ってきた椅子が、我が子のように、愛しくて嬉しくて」……。

「涙が出てくる。励みになりますよ」(岡田)

飛騨産業の商品の品質の高さは小売店も認める。モノの良さがハッキリしているからお客に薦めやすいのだと言う。東京・新宿のIDC大塚家具・髙原佑児次長は「木の質にこだわったお客様に自信を持ってお薦めすることができます」と言う。

こうして時代にマッチした様々な取り組みで客を取り戻した岡田。社長就任前、減り続けていた売り上げはV字回復。瀕死の会社が見事、生き返ったのだ。

「飛騨産業に対する期待や信頼をひしひしと感じました。『絶対立ち上がれるという妄信のような確信があった。絶対に成功するとしか思わなかった」(岡田)

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売上高激減で借金30億円~どん底からの復活劇

飛騨産業のちょっと値の張る家具をお手頃価格で手に入れられる嬉しい場所がある。並んでいるのはショールームなどで展示されていた商品。「飛騨の家具館アウトレット」は直営のアウトレットショップだ。

アンティークな仕上がりのダイニング・チェアの値段は、6万6960円が3万4000円とほぼ半額。高級感あふれるダイニングセットはなんと26万円引きの32万4000円だ。値段的には少々敷居の高い家具がグッと身近になる

しかしこのアウトレットショップは、もともとは必要に迫られて作った店だと言う。

「背に腹はかえられない。とにかくお金に換えようということで始めました」(岡田)

岡田は1943年、高山市に生まれた。大学を卒業後、家業の小さな荒物屋を継ぎ10店舗のホームセンターチェーンに成長させたやり手経営者だった。1995年に合併話があり、経営権を譲りリタイア。55歳で悠々自適な隠居生活に入った。その頃、地元を代表するメーカー、飛騨産業は経営難に陥り、借金は30億円に及んだ。そこでやり手と評判だった岡田に白羽の矢が立ったのだ。

「子供の頃から飛騨で飛騨産業というのは自分たちの誇りのような会社だった。それを任せると言われたら、『よっしゃ』と言いたくなるじゃない」(岡田)

2000年、岡田は57歳にして飛騨産業の社長に就任。しかし社長になってすぐに、我が目を疑う光景を目の当たりにする。それは初めて社内を見て回ったときのこと。作業場や倉庫を天井まで在庫の山が埋め尽くしていた。バブル崩壊後も、職人は売れる、売れないに関係なく商品を作り続け、会社は大量の在庫を抱えてしまっていたのだ。この在庫を処理するためにまず作ったのがアウトレットショップだった。

しかし、大安売りはその場しのぎ。当時の飛騨産業には根本的な問題が山積みだった。

岡田が真っ先に手をつけた難題が古い商いからの脱却。以前の飛騨産業は商品を全て問屋に卸していた。しかし同じようにやっていては、利益が上がらずジリ貧になる。岡田は中間マージンを省くべく、小売店との直接取引に動く。しかし小売店には問屋との長い付き合いがあり、なかなか首を縦に振ってもらえなかった。

「でも、それをやらなきゃ会社はもたない。だから『ひたすらお願いしてくれ、100回お願いに行ってくれ』と。営業マンは本当に頑張ってくれました」(岡田)

粘り強い交渉で小売店との直接取引を獲得。これを機に岡田は生産体制も変える。目指すは在庫を持たないビジネス。職人が作れるだけ作っていたやり方を改め、注文が入った分だけ作る受注生産に切り替えた。この大転換でお荷物の在庫が倉庫や工場から消えた。

「倉庫料だけで月に300万円以上払っていた。それがなくなったのは大きいです」(岡田)

古い商いに決別し、利益を生む体質に変わった会社。今や直営店8店、直接取引する小売店は全国300店にまで広がった。

続いて取り組んだのは、職人の意識改革だ。きっかけはやはり社内を見て回っていたときのこと。まだ使えそうな木材が焼却炉の前に山と積まれていた。「なぜこんなに木を捨てるんだ」と問い詰める岡田に、職人たちから「節が入っているじゃないですか。節が入った木は家具には使えません」という答えが返ってきた。少しでも節が入った家具は不良品。これが家具業界の常識だった。

「前例がないなら、作ってしまえ」という岡田の大号令に反発したのが職人たちだった。

「表面に節があるものを使うのは、当時は考えられませんでした」(本社工場長・築山竜也)

猛反発に遭いながらも岡田は節のある家具の製造を押し進める。そして2001年、世に送り出したのが「森のことば」シリーズ。節をデザインの一つとして捉え、より木を身近に感じられるイメージを打ち出した。すると「森のことば」シリーズは業界の常識を破る商品と話題に。年間8億円を売り上げる大ヒット商品となった。

さらに岡田は一部のベテラン職人の聖域化されていた仕事も見直す。例えば丸く曲げたイスの背もたれ。均一に磨く作業は難しく、限られたベテランの専門となり、その職人が休めばラインも止まっていた。岡田はその聖域を取っ払い、若手の職人にもやらせるようにした

「職人に『まだ早い』と言われて若手はやらせてもらえなかった。今はベテランに聞けば素直に持っている知識を教えてくれるようになりました」(築山)

多くの職人が様々な作業をできるようになり生産性もアップ。岡田流改革で職人の意識も会社の体質も変わったのだ。

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