ニューヨーカーにとって深刻な「書店の消滅」その意外な理由

 

理由は、日本だと定価だから。ニューヨークの紀伊國屋書店では、郵送コストもかかり、だいたい日本の定価の倍近い額になります。つまり僕たちには、日本の書籍がなんなら「半額」くらいの感覚になってしまっています。なので、ニューヨークでは絶対に買わない「ファッション雑誌」や「ゼロからやり直す日本史!」や「萩原健一自伝」みたいな本まで購入してしまうわけです。(結局はそれ、定価なんだけど、日本人的には)毎回、3万円から5万円くらいを大人買いし、帰りのスーツケースはまるまるひとつ書籍で埋まります。なので、いつも空のスーツケースを日本には持って行きます。それくらい、時間があれば、書店にいたい人間です。

例えば、うちの奥さん。たまに一緒に書店に寄ると目当ての書籍を手にとってすぐにレジに行き、買うや否や店を出ようとします。バカなのかなと思います。逆に、子供服売り場では、どっちが可愛いか延々と何時間も迷ってる。ありえない。子供の着る服なんて、穴さえ開いてなきゃ、なんでもいい。手に取ったモノをレジにそのまま持って行って、スグ店を出よう。そう言う僕に、彼女は逆に「バカなの? ありえない」と言います。 そんな僕は、日中、編集部から歩いて5分の紀伊國屋書店ニューヨーク本店にはちょくちょく足を運びます。地下はケータイもつながらないので好都合。もちろん米系の書店でも、前述の「リフレッシュ作用」は変わらない。こっち(現地)の本屋さんも大好きです。

ただ、ニューヨークに限らず、世界的なことですが、とにかく街から書店が消えました。僕の渡米当初、今から約20年前、ニューヨークは書店だらけ、というのは大げさでも、大型書店が結構な数でありました。どこのエリアにも。 今でこそ、日本でも珍しくありませんが、それらの大型書店は、立ち読み客のために、座り心地のいいソファを店内のあちこちに設置し、スタバなどのチェーンカフェも常設し、言ってみれば「マンガ喫茶」ならぬ「新刊の書籍喫茶」のようなものでした。 お金のなかった当時、時間が空けば、当時付き合っていた今の妻とふらっと寄っては、コーヒー1杯で、雑誌を片っ端から目を通し「時間を潰す時間」にしていました。当時は、今よりも英語が苦手で、話すのにも苦労していたのに、雑誌を「読む」なんてできなかったはずなのに、不思議とその時を、楽しい時間だったという記憶しか残っていません。

今では日本でも、このように「立ち読み」ならぬ「座り読み」の客を目にしますが、ニューヨークのこれらの書店のすごいところは、客になんの遠慮も見えないところ。「ここ、図書館か!?」というくらい、何冊も山積みでテーブルに置き、まるで自分ちのリビングのように、くつろぎまくって読書タイムを満喫しています。コーヒー片手に。 圧倒されたのは、読み終わった後。ほぼ全員のニューヨーカーが、その山積みになった書籍をそのままにして店を出ます。1冊も購入しない場合でも。で、店員が当たり前のように片付けて、テーブルを拭いて、新刊を元の棚に片付ける。

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