くだらない掛け算論争を半世紀も続ける「決断できない教育現場」の正体

Japanese elementary school students to get to the deskJapanese elementary school students to get to the desk
 

前回掲載し好評だった記事『5×3か、3×5か。「くだらない」掛け算論争を半世紀続ける教育現場』に続き「決断できない教育現場」に言及している、無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教諭の松尾英明さん。松尾さんは、教育現場の「入れ子構造」に苦言を呈しつつ、「自分の考える正しさを主張する」ことの重要性を語っています。

主張と正しさと多様性の尊重

前号で『くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場』という記事を書いた。

これがまぐまぐニュースになり、ドコモのニュースサイトでも紹介されていた。

● 5×3か、3×5か。「くだらない」掛け算論争を半世紀続ける教育現場
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mag2/business/mag2-577875?return=feature_pneumonia&redirect=1

くだらないようで結構、人々の興味の対象ということである。

最近はまた「筆算で定規を使わないと×」とか「絶対に下敷きを使わないとダメ」とか、何十年前にも喧々諤々の論争があったのものが、再燃して色々騒がれる。ネットやSNSの作用である。それら全ては「謎ルール」とラベリングされることで思考停止し批判の的になり、一緒くたに処理される。

ただ前回「くだらない」と批判した先の中心は、論争自体の方ではない。後半の「決断できない教育現場」の在り方そのものである。

正直、どんな議論でもそうだが、どちらの立場の意見にも、それぞれ理は存在するのである。三分の理すら存在しないということはない。

ただし、全ての「正しさ」は、場が決める。時代や文化によっても変わる。時の為政者が決めることもある。それは即ち、宇宙の真理とも言えるような絶対的な正しさは存在しないとうことの裏返しでもある。

では、そんな中で、現在の日本の学校教育の指導内容の正しさは、誰が規定しているのか。教育基本法であり、それを受けた学習指導要領であり、つまりは文部科学省が決めているのである。そこに決断して欲しいのであるが「現場の主体性の尊重」というような言葉でうやむやにされてしまう。

では、現場が主体的に判断しよういうことでいざ決断すると、ここに批判がくる。もっというと、裁判沙汰である。そうなるのは嫌なので、「主体性を尊重」された現場の方も、やはりうやむやにする、ということになる。

いわゆる上から下まで全てが「入れ子構造」である。誰も責任を取ろうとしないのだから、結局決断しようがない。本来指導すべき内容も「どちらでもいい」となるのである。

ここに関連して、次の「みんなの教育技術」(小学館)の記事は示唆に富んでいる。

● ボツになった三つの原稿 ―上司、上役の判断、決断の「気がかり」―【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】
https://kyoiku.sho.jp/237242/

以下、記事中より引用する。(メルマガの読みやすさの都合上、句点毎に改行)

<「最も気がかり」なことを述べたい。

上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。

それは、「公」よりも「私」を重んずることである。

漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。

 

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