くだらない掛け算論争を半世紀も続ける「決断できない教育現場」の正体

Japanese elementary school students to get to the desk
 

「公」よりも「私」を重んじて、判断と決断ができないのは、学校だけではないようである。そしてそのくだらなさと弱腰の姿勢を批判すべきは、「上」ではない。それをよく考えずに甘んじて受け入れ、付和雷同している、自分自身の方である。

よく言われるたとえ話に次のものがある。人を批判して指差す時、「人差し指」の1本のみは相手を指している。他の「中指」「薬指」「小指」の三本は、自分自身を指している(私見としては「親指」だけが誰も指していないことも象徴的であると思う)。

結局、現場にいる人間がそれぞれ行動しない以上、何も変わらないということである。命令する側からすれば、理不尽で変なことでも大人しく従ってくれているのだから、変えようと思わなくて当然である。それは、本来正しくないことを是とすることであり、公にとっても大きな損失である。

そういう意味では、一見「くだらない」と思われる各種議論には意味がある。しかしその場合、多様性に対して前向きな議論である必要がある。なぜならば、「多様性を認めよう」ということは「多様性を認めない」という考え方をも包含するからである。一見矛盾しているようだが、それが真理である。真逆の考えは自分にとっては正しくないが、相手にとっては正しい。

「これだけが絶対正しい」という考え方は、危険である。その前提の上で、指導する時にはとにもかくにも「正解」を示すというのが教える者の仕事だという話である。たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。

私はネットの匿名で「頭がおかしい」とまで言われたことが何度もある。恐らく、世の常識や当たり前を問うような、はっきりとした主張をしているすべての人に、不可避の体験である。なぜならば、記事や書籍等を通じて「私」としてはっきり「主張」しているからである。

一つの主張には、必ず反論が出る。陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。これは、先の一見矛盾する多様性の尊重の話にも通ずる。

結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。

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