日本と日本人のために偉大な足跡を残した「たった4ヶ月だけの総理大臣」

World War II era Japanese fighter planeWorld War II era Japanese fighter plane
 

日本国民が静かに黙祷を捧げる夏─。太平洋戦争の敗戦から78年が経ちました。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、 戦争の終結を天皇に求め、国賊とすら言われた首相、鈴木貫太郎にフォーカスをあてています。

終戦の使命を遂行

8月になると太平洋戦争に関する話題がされます。

明治維新から昭和20年、太平洋戦争の敗戦までが77年、今年で戦後78年です。

1945年8月14日、米軍が日本本土に迫る中、皇居御文庫地下会議室で昭和天皇臨席の御前会議が行われました。招集されたのは鈴木貫太郎首相以下全閣僚、参謀総長、軍令部総長、枢密院議長です。

昭和天皇は、「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい。これ以上、戦争を続けてはわが国が焦土となる。万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは、私としては実に忍び難い。少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。この際、堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う」と、ポツダム宣言受諾、すなわち連合国への降伏の断、すなわち聖断が下されました……

と、理解しておられる方は珍しくないと思います。決して間違いではないのですが正確に言うと、この聖断は二度目で、ポツダム宣言受諾は前回の聖断で決定されていたのです。

最初の聖断は4日前の8月10日でした。この時はポツダム宣言を受け入れるか否かで会議が割れ、首相鈴木貫太郎が、「畏れ多い極みでございますが」と、天皇の聖断を仰いで受託か決せられました。対して14日は連合国側の通達に対しての聖断でした。ポツダム宣言受諾に際し、日本政府は、「天皇の大権を変更しない事」と唯一の条件を付与しました。

連合国は、「天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとする。マッサカーサー元帥はポツダム宣言を遂行すべく、適切な処置を取るものである。日本国政府の最終的な形態は、日本国民の自由に表明する意志により、決定すべきものとする」と回答してきました。

print
いま読まれてます

  • 日本と日本人のために偉大な足跡を残した「たった4ヶ月だけの総理大臣」
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け