日本と日本人のために偉大な足跡を残した「たった4ヶ月だけの総理大臣」

World War II era Japanese fighter plane
 

この中の、「連合国最高司令官の制限の下」という文言が引っかかります。原文は、「subjec to」です。外務省が、「制限の下」と訳したのに対し、陸軍は、「隷属」と訳して連合国は日本を属国にすると激しく反発し、ポツダム宣言受諾が反故になりかねない状況での聖断でした。

明治天皇以来、天皇は政治的決定に介入しないという不文律を二度も破っての昭和天皇の決断、すなわち聖断でした。天皇に聖断を求めた鈴木貫太郎は国賊扱いされ、一部国粋主義的陸軍の将校らに私邸を焼かれます。燃え上がる屋敷を消防隊員たちも国賊の家だと消化活動を行いませんでした。

では、日本史上最大の国難の最重要決定を天皇に求めた鈴木は無責任、無能な首相であったのでしょうか。

否、鈴木貫太郎は憲政史上にも稀なる優れた首相であり、聖断も鈴木の慎重な準備と終戦への堅固な信念によってなされたのでした。

やり方を誤れば、もっと多くの犠牲者を出し、国が分断されたかもしれない日本始まって以来の危機を鈴木は乗り越えたのです。

鈴木が昭和天皇の強い希望で首相に就任したのは1945年4月7日、77歳の高齢でした。この日、帝国海軍の象徴とも言える戦艦大和が米軍機の攻撃を受け、撃沈しています。既にB29による本土空襲は本格化、沖縄には米軍が上陸、誰の目にも配色濃厚です。

切迫した事態となり、日本政府はソ連に仲介を求めようとし、元首相近衛文麿をモスクワに派遣しようと計画します。そのため、駐ソ大使がソ連外務省と折衝しますが、受け入れられませんでした。

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