【起業記】大繁盛ラーメン店『町田商店』を作った男が綴る(その3) 「第1号店を開業」

 

スープのコントロールに悩む日々

2008年1月、満を持して横浜家系ラーメン『町田商店』はオープンしました。長年の夢が叶った瞬間でもありました。

オープン初日は、サイレントオープンだったため、僕とじゅんさんで問題ないだろうと思い、2人で営業しましたが、11時から22時までの営業で20万の売り上げと、好調なスタートだったため、お客様に対して待たせてしまったり、提供の順番を間違えたりと満足していただけるような営業ができませんでした。

すぐにアルバイトを補充し、日に日にオペレーションも良くなっていきましたが、またすぐに問題が勃発しました。

2週間ほどたった頃、スープの味がブレ始めてしまったのです。お昼頃まではなんとか提供できる味なのですが、アイドルタイムになると決まってスープがまずくなってしまい、そうなってしまうと、どれだけ手を加えても美味しい味に直すことができませんでした。美味しくないラーメンを提供するくらいならお店を開けないほうがいいと思い、スープが悪い日はお店を開けずに何度も作り直していました。

試作の時あれだけ美味しかったスープが嘘のように、全くコントロールできなくなってしまい、同じように作ろうと思っても、二度と同じ味が出せるようになりませんでした。

日が経つにつれ、その味は悪化する一方で、オープン2ヵ月頃にはまともに1日中オープンしている日は1日もありませんでした。当然資金はどんどん減っていき、運転資金として通帳に残っていた100万は底をついてしまいました。

『壱六家』の技術を一切使わず自分の力だけで考えたスープの作り方に固執していたため、資金のことなど一切考えていませんでした。子供をおんぶしながら仕込みや掃除を手伝い、経理や雑務を何でもこなしてくれていた嫁に対しても、家に帰って当り散らしたりしてしまっていました。余裕も自信もなくなり、精神的に追い詰められていきました。

「このままだと店が潰れるよ! 意地を張らずに『壱六家』の時のやり方に戻そう!」

そうじゅんさんに説得され、1ヵ月自分のやり方でやらせてくれと死闘を尽くしましたが、結果、納得のいくスープを作ることはできず、『壱六家』の時のスープのやり方に戻すことになりました。ひと時でも自分の考えたスープの方がいいものができたため、自分の実力を過信しましたが、結局、先人の作り上げたものを超えることができなかったのです。

『壱六家』のスープの作り方に戻してからは、最高に美味しいスープとまではいかないものの、高いレベルの味が安定して出せるようになり、それからはお店を閉めることはほとんどありませんでした。

しかし、まともに営業できていなかった焦げ付きは1ヵ月遅れてやってきました。4ヵ月目のじゅんさんの給料を、お金がなくて払えなくなってしまったのです。足りないのは10万円弱だったため、一日給料を遅らせれば支払いはできましたが、それは絶対やってはいけないと思い、金策に走りました。消費者金融に駆け込むことも考えましたが、もし自分の与信を傷つけると『町田商店』の将来にも大きなマイナスを与えると思い、両親に頭を下げに行き、10万円を借りました。

借金の理由をスタッフの給料が払えないからと正直に伝えましたが、両親からすれば、オープン間もなくそんな切迫した状態なのかと心配もあったと思いますが、何も言わず見守ってもらえたことはありがたいと思いました。

その後、安定した営業のかいもあって、初月250万ほどだった売り上げも、約1年後の年末には倍の500万円まで上げられることができました。美味しいラーメンを元気に楽しく提供する。飲食業は飲食人として当たり前のことを当たり前のようにやれば結果はついてくるということを確信しました。

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