加害責任との向かい合い方も全く不十分な「敗北原理主義」
若い世代は理解が難しいかもしれないのですが、一定年齢以上の世代は、加害による名誉の喪失も、被害による巨大な人命の喪失も、二度と経験したくないというPTSDを宿命的に持っているわけです。そこまでは所与の事実であり、動かしがたいと思います。そうなのですが、例えばテロ抑止行動であるとか、権威主義国の侵略行動などに対しても、「自分たちだけはカネで解決したい、手は汚したくない」というのは、流石に友人を無くす言動になるわけです。
その奥底には、恐らく全く無自覚なのだと思いますが、「戦争で奈落の底まで突き落とされた日本の名誉」は、「アメリカをはじめとする戦勝国などが軍事に手を染めて邪悪化することを徹底批判して見下す」ことで報復できるという心情が感じられます。日共などの言語表現によく出てくる「何々を許すな」的なもの、あるいは今回の選挙で出てきた「母さん戦争止めてくるわ」といったものにも、それが感じられます。
つまり、戦後日本は非武装中立を貫くことで、名誉という意味では世界の頂点に立ちたがった、いわゆる左派的な一国平和というのは、そういうイデオロギーだということもできます。とにかく平和国家なので世界一だという勝手な自信といいますか、他国を見下す姿勢とも言えるものです。
この名誉の頂点から発言したいという姿勢は、恐らく全く無自覚で、しかし偏狭なナショナリズムの変種であることは間違いありません。そして、そのために問題を起こしているとも言えますし、そのために若い世代には伝わらなくなっている、そのような印象を持ちます。
では、右派の一種の敗北主義的な原理主義のほうが「まし」かというと、これも違います。実際に1945年には国が本当に滅亡してしまったのですし、膨大な数の人命も失われました。その敗北責任、亡国責任を「滅びの美学」プラス「欧米への怨念」で説明してもらっては困るからです。と言いますか、そのような説明からすら逃げているとも言えます。
敗北原理主義についていえば、加害責任との向かい合い方も全く不十分です。滅びの美学に則って本当に滅んだし、その痛みも残っているから加害責任は忘れるという姿勢は、相手のある世界では著しく不利に作用します。たこの点に関して、現状については危機感を覚えます。特に恐ろしいのが昨今の中国共産党幹部との舌戦です。周恩来ドクトリンと日中条約のベースになっている、「日本軍国主義は悪だが、日本人民は悪でない」という原則が崩れつつあるからです。
中国との舌戦において「戦争は民衆の熱狂が後押しした」などということを軽々しく言うと、この大原則が崩壊します。これに中台問題への介入は内政干渉だとか、抑止力行使や存立基盤の話は戦前の侵略の論理と同一、といった説明が重なっていくと、最終的には「今でも日本は枢軸で国連の敵」といった無理なロジックが動いてしまいます。
とにかく、大戦に関する総括において「滅びの美学」があり、また「民衆の熱狂」があったというのは、現在形での敵意を「無から有にしてしまう」非現実的なまでに危険なストーリーだと思います。それが原理主義だし、日本での支持が拡大しているというようなことになると、安全の保障から大きく後退していまいます。
国家観や政治に関する原理主義に関しては、天皇制度と血統の問題、国旗国歌の問題などがありますが、こうした問題にはリアリズムの姿勢から丁寧な交通整理が必要だと感じています。特に皇位継承に関しては、いわゆる帝王スキルの訓育制度の不在ということが問題です。ちなみに、この点に関しては、順位2番目の方の問題ではなく、順位1番目の方の方も問題だと思っています。
その一方で、様々なナショナリズム、原理主義の百家争鳴時代においては、「徳川将軍家への大政奉還」であるとか「私擬憲法など明治の自由民権の再評価(色川大吉的なものではなく、純粋な自由思想として)」なども可能性としてはあると思います。こちらも機会があれば展開してみても面白いと思っています。
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