洛中なにするものぞ、そう気合いながら話が進む。洛外生息の劣等感が、執筆の動機になっている。だが著者は、洛中人と同じようないやらしい偏見で、亀岡市や城陽市への優越感があることを告白し、自己嫌悪する。京都的な差別連鎖の末端にいつの間にか据え付けられた。京都人たちの中華思想に汚染されて、その華夷秩序を、反発はしながらも受け入れるに至ったのだ。ヘタレだ……。
その一点で、私は自分にも京都をにくむ権利がある、と考える。わたしをみょうな差別者にしてしまったのは、京都である。人を平等にながめられなくさせたのは、この街以外の何物でもない。
とは、言いがかりに近い妙な理屈だが洛中文化・いけず目線を浴びることで育った人だから、こうなるのだろう。
結びでは、京都の中華思想をふりかざす手合いと、似たようなことを書いている。自分と京都人との違いをあれこれあげつらうのは、似たもの同士の中で自らを際立たせようするからだろう。ずいぶん屈折した京都論で、なかなか面白かった。
編集長 柴田忠男
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