サッカーを変えた孤高の天才。ヨハン・クライフの早すぎた死に思うこと

 

ジョージ・ベストだけでなく、イングランドサッカーの大ファンだった僕は、高校入学と同時に、海外のサッカーを深く知りたいと思い、洋雑誌を定期購読した。 
イギリスから「Football Monthly」、「 Fotball Pictrial」、「 Goal」、「 World Soccer」の4誌を、それこそ貪るように読んだものだ。 
最初に届いたのは「World soccer」だった。 
そこでは僕の尊敬するサッカージャーナリストのブライアン・プランビル記者によるヨハン・クライフのインタビューが掲載されていた。 

デビュー直後のヨハン・クライフは、1歳年上のジョージ・ベストと比較されることが多かった。 
ブライアン・プランビル記者も例に漏れなかった。 

貴方はオランダのジョージ・ベストですね」という言葉をぶつけたのだが、それに対して「私はオランダのクライフとして取材を受けている」と返したのだ。 
これは後に知ったのだが、ヨハン・クライフが理想としていたのは、1950年代にレアル・マドリードなどを中心に活躍したアルゼンチン人のアルフレッド・ディ・ステファノだったようだ。 

その後、僕はヨハン・クライフをプレーを見るうちに、残念ながらジョージ・ベストよりヨハン・クライフが勝っているということを、認めるようになっていた。 
フェイバリットプレーヤーがジョージ・ベストであることは変わらないが、最高の選手はヨハン・クライフであると思っていたのだ。 

そんな高校時代、サッカー部の友人と話をしている中で、ヨハン・クライフについてどう思うかと問われたことがあった。 
そのとき僕は、「あの人はツバメだよ。速すぎて誰にも捕まえることはできない」と答えた。 
友人はいたく感心してくれた。 
今となっては、我ながら巧いことを言ったものだと思う。 

僕は仕事柄、様々なサッカー選手に会うことができた。 
ペレ、マラドーナ、ベッケンバウアー、ジーコなど、サッカー史に名前を残す選手たちとじかに触れることで、色々なことを学ぶことができたと思っている。 
そんな僕が唯一会う機会がなかったのがヨハン・クライフだった。 

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