ヨハン・クライフの訃報から数日後、バルセロナに20年在住している、日本人の友人が僕を訪ねてきてくれた。
当然、話はヨハン・クライフのことだった。
その友人はヨハン・クライフの知り合いではなかったが、ヨハン・クライフは町で声をかけられると、気軽に挨拶してくれる気さくな人柄であることはバルセロナでは有名だったと語っていた。
返す返すも残念でならない。
僕のフェイバリットプレーヤーからナンバー1の座を奪った「オランダのクライフ」に聞いてみたことは、山のようにあった。
クライフは、その死までもが速すぎて、僕には掴まえることができなかった。
やはりあの人はツバメだった。
ジョージ・ベストもヨハン・クライフも、ストリートサッカーの天才だったという。
育成組織が強化されてきた現代では、なかなかストリートサッカーから選手が出てくることは少なくなった。
しかし数十年前までは、ストリートサッカー出身のプロは、珍しくなかった。
未整備の場所でプレーするため、ボールを巧みにコントロールしなければ、ボールは足を離れてしまう。
そして何よりも、年齢もまちまちのストリートサッカーにおいては、身体も大きくて強い年上と一緒にプレーするため、自分のハンデを克服するための知恵が磨かれる。
才能を花開かせるには、絶好の場所だったのかもしれない。
浦和レッズの監督を務めていたア・デモスは、ヨハン・クライフとは幼馴染であり、親友でもあった。
アヤックスの下部組織ではチームメートだった。
ア・デモスから聞いた話だが、アヤックスには野球部門もあり、ヨハン・クライフは野球もプレーしていたという。
ポジションはキャッチャーで、相当に巧かったようだ。
余談だがセンターを守っていたのは後のオランダ代表FWで、「もう一人のヨハン」と呼ばれたヨハン・ニースケンスだったという。
ヨハン・クライフの選手としての実績や監督としての実績は、もはや僕が記すまでもないだろう。
様々な媒体にクライフ讃歌が掲載されており、読者の皆さんも十分にそれは承知していることだろう。
一つだけ強調したいことは、今のバルセロナの原型を作り上げたのは、紛れもなくヨハン・クライフであるということだ。
恩師であるリヌス・ミケルスの影響も受けているのだろう。
スピードをベースとして、運動量、ポゼッション、局面でのテクニックなどの要素を、全てのポジションの選手に求めたトータルサッカーを作り上げたヨハン・クライフは、やはり天才だった。
選手としても、指導者としても頂点を極めたヨハン・クライフの功績は、サッカーというスポーツが続く限り、色あせることはない。
この点においてだけは、クライフのツバメのようなスピードも無関係でいられることだろう。
『セニョール佐藤のアングル~世界の中の日本サッカー~』
著者/セニョール佐藤
日本サッカーのプロ化に尽力、Jリーグ設立に寄与。日本サッカー協会国際委員などの他、日本サッカーリーグ、Jリーグの多数の委員会で活動してきたセニョール佐藤が、日本サッカーについて様々な観点(アングル)からお話します。世界中に広がる独自の人脈から得た「ここだけの話」も登場します。
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