始まりは文字通り「講談」。知られざる講談社・創業者の偉業

 

『講談倶楽部』創刊

『雄弁』の成功に力を得て、野間は新しい企画を考えた。『講談倶楽部という新しい雑誌の発刊である。当時、文部省は社会教育に乗り出していた。一般民衆に、忠孝仁義などの道徳を教え、理想的な日本国民に育てようという活動である。しかし、高級な本や雑誌はあったが、広く一般国民に受け入れられるような教材がなかった。

そこで、野間は講談に目をつけた。講談の中から適当なものを読み物にしたら民衆教育の絶好の教材になるのではないか、と考えたのである。小学校の代理教員時代に、子供たちに『八犬伝』を話して聞かせた体験がもとになった。

ただ『講談倶楽部』は柔らかい雑誌なので、「大日本雄弁会」とは別の出版の方が良いと考え、新たに講談社を設立した。

講談倶楽部』創刊号は、明治44(1911)年の天長節(今の文化の日)に発売された。創刊号は1万部刷ったが売れたのはわずか1,800部で、書店から返本の山が戻ってきて、置き場所に困るほどだった。2号は8,000部刷ったが売れたのはわずか2,000部

『雄弁』が初めから成功したのは、東大教授陣という信用があったからだった。野間は信用というものが、いかに重要かを思い知らされた。

窮地に陥った野間は、早朝から深夜まで駆けずり回り、帰宅してからも原稿の依頼、借金の申し込み、読者の勧誘など、一晩に30通もの手紙を書いた。こうして一年ほど頑張っていると、『講談倶楽部も徐々に売れ行きが増えて黒字になっていった

「成功への一番の近道は道徳的な道」

講談倶楽部』では、講談の速記だけでなく、小説家や伝記作家に講談同様の面白い物語を書いて貰うようにした。

『宮本武蔵』の吉川英治、『半七捕物帳』の岡本綺堂、『鞍馬天狗』の大佛次郎、『怪人二十面相』の江戸川乱歩、さらに、直木賞の直木三十五、雑誌『文藝春秋』を創刊した菊池寛など、みな『講談倶楽部』から世に出た大家である。今日、大衆文学大衆小説と呼んでいる分野はここから始まったと言える。

『講談倶楽部』の成功体験から、野間は成功への一番の近道は道徳的な道であることを知った。雑誌にしても、人間の卑しい欲情に訴えることで売れる場合もあるが、そんなものは長続きしない。それよりも、道徳的な話感激する物語の方が人を引きつける

野間自身も道徳的な目的で雑誌を出すのだという信念があったから頑張れたのだし、世のため人のためという信念を貫き通していると、世間も信じてくれるようになる。それがじわじわと販売部数を伸ばし、黒字になる所までいった理由であった。

この事が分かってから、野間は少年の道徳心を高めるための第三の雑誌少年倶楽部を創刊する。忠臣孝子、英雄偉人、勇将烈士などの物語に沿えて、色刷りの美しい口絵や挿絵を入れ、著名な学者、軍人、政治家などの執筆した「面白くて為になるを加えた。編集も「一字でも誤植があれば、天下の子供に害を与える」と細心の注意を払った。

読者の評判は上々だったが、とにかく金がかかっているため、赤字が続いた。毎月、莫大な損失を出しながらも、野間は『少年倶楽部』を出し続け、やがて部数を大きく伸ばして、ついには成功にたどりついた。

野間はさらに美談逸話を満載した『面白倶楽部』、『現代』、『婦人倶楽部』、『少女倶楽部』と、次々に雑誌を増やしていった。

「国中が明るく美しくなるように」

そして大正13(1924)年末に、雑誌キングを創刊する。外国の雑誌には発行部数が100万部を超えるものがあるということに刺激され、野間自身が「私がそれまでに企図した最大の計画」として、5年前から周到に準備した企画だった。

野間は『キング』を日本全国に広げることによって、日本中に良風美俗がおこり、国中が明るく美しくなるように、と願っていた。この意気込みを受けて、社員も家族も徹夜で、編集や広告用の立て看板作りに打ち込んだ。

創刊前から予約が殺到し、予定していた50万部が売り切れてしまった。その後も重版に継ぐ重版で結局創刊号は74万部が売れた。『キング』はその後も部数を伸ばし、1年後の新年号は、150万部を刷るまでになった

『キング』は道徳的な内容といっても、面白い読み物が満載である。総振り仮名なので、仮名さえ読めれば誰でも読めそのうちに漢字も覚えてしまう

『キング』の読者からは講談社に感謝の手紙が届くようになった。「素行のよくない息子が『キング』の中にある話を読んで、夢から醒めて家に帰ってきた」「『キング』を読むようになってから、嫁と姑が急に仲むつまじくなった」等々である。

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