始まりは文字通り「講談」。知られざる講談社・創業者の偉業

 

沖縄でも「八犬伝」式

野間は知り合いから借金をしまくって、なんとか2年間の教員養成所を卒業した。たくさんの本を読み、寄席や演説会に通い、先生方と学生との親睦会を自分で開いては、そこでも演説をぶったり、と充実した2年間だった。面白い奴だと野間は先生方にも学生たちにも好かれた

卒業後の就職先には「一番給料の高いところ」を希望して、沖縄県立中学に決まった。借金もあるし、また早く金を作ってさらに高い教育を受けたいという気持ちだった。

ここでも「英雄豪傑の物語、勇壮豪快、胸をわくわくさせるような例の八犬伝式の説話を試みて」8つの徳目を教えていった。やはり野間の授業は、大人気だった。

沖縄で2年間、愉快な生活を続けていると、文科大学の書記長から、東京に戻ってこい、という電報を受け取った。東京帝国大学法科大学の首席書記に欠員ができて、大勢の人がこの地位を狙っているが、野間を教えた先生方が熱烈に推薦してくれたのである。

沖縄を離れる日、桟橋から波止場まで黒山のような群衆が集まり、野間を送り出してくれた。

「雄弁は世の光である」

時に日露戦争が終わり、日英同盟が結ばれて、国内でも議会制度が発達し、弁論が重視されるようになった。東大でもオックスフォード大学に倣って弁論部が作られ、第一回の演説会が明治42(1909)年11月14日に開かれた。集まった聴衆はなんと千数百人。その前で教授陣、在野の言論人、そして学生代表が熱弁を振るった。

この時、野間はあるアイデアを持っていた。天下に名の聞こえた教授たちや言論人の講演を速記にとってそれを雑誌で出版しようというのである。教授たちや学長も「雑誌経営は難しいぞ」と言いながら、おおむね賛成してくれた。

編集元として「大日本雄弁会」という大げさな名前の会を作り、たまたま同じく「大日本」の名を冠した「大日本図書株式会社」という出版社を電話帳で見つけた。すぐに会社を訪ねて、計画を熱を込めて説明した。東大の先生方も応援の電話をしてくれて、雑誌出版を引き受けて貰った。

雑誌のタイトルは『雄弁』とし、「発刊の辞」では訴えた。

雄弁衰えて正義衰う。雄弁は世の光である。雄弁に導かれざる社会の輿論は必ず腐っている。雄弁を崇拝することを知らぬ国民は必ず為すなきの民である。文化燦然(さんぜん)たる社会には、常に雄弁を要する、又雄弁を貴ぶ気風がなくてはならぬ。…
(『「仕事の達人」の哲学』渡部昇一 著/致知出版社)

雄弁衰えて正義衰う」とは、国会においてすら、まっとうな議論の行われない今日の日本に警告しているかのようだ。

創刊号は明治43(1910)年の紀元節、2月11日に発売された。初版の6,000部はその日のうちに完売し、第2版3,000部、第3版5,000部と矢継ぎ早に増刷し、結局1万4,000部も売れた。当時、最も売れていた雑誌が2万部だったので、創刊号から1万4,000部とはまさに驚異的な売れ行きだった。

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