手塚先生の生き方を追ってみる前にもうひとつ、運勢について見てみたいと思います。運勢、つまり人生において定期的に変化していく「気」の環境の変化です。
まず10代に入った頃から運勢は追い風です。さして勢いはありませんが、努力は報われやすい環境です。特に、学問においてその傾向が強く出るので、学生時代であるこの時期に、この運勢が巡るということは現実との一致、という面からも運勢がいいと言えます。
そして30代になると、宿命の枠が外れて、場合によっては実力以上の結果が得られる可能性があります。さらに40代になると、宿命の枠が外れたままさらに運勢が加速していきます。ここで意識的にブレーキをかけないと、エンジンが焼き付き、50代に入ってから健康面で大きな問題を起こす可能性が高まります。もし、暴走気味の運勢の波に乗って大活躍していたら、50代で命をも失いかねない危険があるのです。
10代から40代にかけて、どんどん加速していく運勢と、慌ただしく、まるででこぼこ道を走るような宿命は人生の浮き沈みを大きくします。そんな宿命を活かしきった手塚治虫先生の生き方を追ってみます。
漫画好きの両親のもとに育った手塚少年は、小学校3年生で初めてのオリジナル漫画を描き、5年生になると長編漫画も完成させます。彼の漫画に惹かれて多くの友達が集まり、学校の先生たちの間でも評判になったそうです。
太平洋戦争が終わる頃、現大阪大学の医学部に進学し医者を目指して勉強しながらも、それまで書き溜めていた漫画の中から選んだ作品を新聞社の学芸部に送ったことをきっかけに、4コマ漫画の連載で漫画家デビューを果たしました。その後も連載契約はいくつも増えていき、初めて出版した長編漫画もベストセラーになりました。
もちろん、医学部での勉強も同時に続け、インターンを経て国家試験に受かるまでの間もジャングル大帝や鉄腕アトムの連載をしっかり続けていたそうです。いやぁ、もう「凄い人」としか言いようがありません。
当時、刊行されていた漫画雑誌のほぼ全てに連載を持つほどの人気作家となった手塚先生は、さすがに医者になることは諦め漫画家として生きていく決心をしました。もっとも、漫画ばかり描いている手塚先生に担当の教授が引導を渡したという話もありますが…。
その後、アニメーション製作のために立ち上げた会社が倒産したり、40歳になる頃には時代遅れの漫画家として低迷したこともありますが、ブラックジャックのヒットですぐに人気を取り戻し、59歳で胃がんを患うまで精力的に働き続けました。
こうして、慌ただしい宿命をしっかりと活かしながらも暴走する運勢の波に乗って生きてきたのですから、いつしか宿命の枠を飛び出し、50代に入ってから健康面で大きな問題を起こす可能性が高まっていたのです。
スキルス性胃癌と診断された手塚先生は60歳で人生を終えました。
最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」だったそうです。