名門企業の相次ぐ不祥事。なぜ日本企業の劣化が止まらないのか

 

シルクロードの日本人伝説

いずれも一流企業の本業に関わる分野のデータ改ざんや不正で、なおかつ経営陣が関わっていたり、報告があったのに上層部が無視して逆に隠蔽を指示したりするケースもあった。私は50年近く経済分野を主に記者活動を行なっているが、近年ほどたて続けに企業の不祥事不正が起きているのを見たり経験した記憶はほとんどない

日本の企業は技術にすぐれ、仕事が丁寧で責任感も強いことで有名だった。私は2015年に『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)と題するノンフィクションを書いた。敗戦時に満州にいた日本の航空工兵が捕虜として中央アジアへ移送され、旧ソ連領だったウズベキスタンの首都・タシケントにビザンティン風の壮麗なオペラハウスナボイ劇場を建設したという秘話である。

敗戦時に中国東北部にいて旧ソ連軍につかまった日本兵の多くはシベリア送りとなり悲惨な捕虜生活を送った人が殆んどだった。しかしタシケントに送られた457人の運命は違った。ロシア革命30周年にあたる1947年11月までにナボイ劇場建設を命じられ、現地のウズベク人と働いたのだ。当時、捕虜収容所内では「どうせ捕虜なんだから適当に仕事をやっておけばいいだろう」という空気が支配的だった。

歴史の恥となる仕事はするな

その時、457人の隊長だった24歳の永田行夫大尉は「確かにそうかもしれない。しかしこの劇場はロシアの三大オペラハウスの一つとして建設されると聞いている。今後数十年も残る劇場と考えると、いい加減なものを作って後世の日本人に笑われ、恥となるような劇場にしてよいのか。ここは日本人の意地と魂手先の器用な技術を生かし逆に歴史に残るような劇場を建設してやろうではないか」と呼びかけ、ウズベク人と一緒に協力し歴史的建造物に仕上げたのだ。

当初、ウズベク人は「捕虜なのになぜあんなに一生懸命働くのだろう。他の工事現場のドイツ人捕虜などは適当にサボリながら働いているらしいのに…」と半分あきれていたという。しかし日本人の働きぶりや知恵の出し方、力を合わせて進める仕事のやり方などをみているうちに、日本人を見る目が変わっていった。そして約束の期限の前となる1947年10月末に、内装にウズベク模様を施した美しい地下1階、地上3階建てのナボイ劇場を完成させたのだ。

この劇場には後日談があり、1960年代のタシケント大地震で官庁街や街の建物はほぼ全壊したがナボイ劇場はビクともせず凛として悠然と建ち続けていた。そのことを知ったウズベク人や中央アジアの人々は日本人の真面目で優れた仕事ぶりを思い出し、改めて感動しナボイ劇場を建てたシルクロードの日本人伝説が今日まで伝わるのだ。そのこともあって中央アジア、特にウズベク人の親日ぶりは今でも大変なもので日本への留学生もきわめて多い。

また劇場の表壁には、「このナボイ劇場は極東から強制移送された数百名の日本人が建設に参加し、その完成に貢献した」という銘板が張られている。当初の旧ソ連時代には日本人ではなく「日本人捕虜」という文字が使われていたが、故カリモフ・ウズベキスタン初代大統領が「ウズベクは日本と戦争していない。だから捕虜という言葉を使うのはやめよう」という考えから書き換えたものだ。

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