さてこの「言語波動説」だが、実は致命的とも言える欠陥がある。少し勘の働く人ならすぐ気付くことなのだが、仮にこの「言語波動説」が正しいなら今現在の関東型(東京)アクセントはかつての京都アクセントだった筈である、という反論ができるのである。 反証はすぐに挙がった。京都アクセントに関しては平安末期と江戸初期の史料が残っていて、それによると当時の京都アクセントは現代の関東型アクセントに似るどころか、寧ろ逆に江戸初期では現代京都アクセントとほぼ同じで、平安末期ではそれを少し複雑にしたようなアクセント体系であった。 アクセントは目に見えないもの、言いかえれば原則書き留められないものである。故に単語の形態ほどには意識されない筈だから、当然変化に対する抑制の力は働き難い。寧ろ少しずつ無視され単純化する傾向にあるものと言っていいであろう。
京都アクセントからの変化で言うなら、
- 平安末期の現代京都アクセントをやや複雑にしたもの
↓ - 江戸初期の現代京都アクセントとほぼ同じもの
↓ - 現代京都アクセント(ここまでは限局的僅少変化)
↓ - 関東型アクセント(現代京都アクセントより単純)
↓ - 一型アクセント(宮崎県都城市周辺)/ 曖昧アクセント(関東型アクセントと崩壊アクセントの境界部)
↓ - 崩壊アクセント(福島県・茨城県・栃木県)
と整理することができるのかもしれない。
だとすればこのまま単純化傾向を進むに任せておくと、もしかしたら何世紀か後には東京言葉は栃木県のような崩壊アクセントになっているかもしれないといった予想も理論上は成り立つ訳である。
だが、おそらくそうはならないであろう。我々の言語環境はそういった変化を許さぬほどに高度な共時性を持つに至ったからである。それが日本人にとって幸か不幸かは分からないところである。
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