学校は社会の縮図。「不登校」と「過労死」はこんな関係があった

 

これは一般社会でも同じである。

新卒が3年以内に辞めてしまうということが問題になるが、ここで会社の側が問題になることはない。会社の側が社会から問題として吊し上げられるのは、社員が過労死した場合である。「身体メッセージを無視してでも頑張ることが大切」という誤学習を繰り返した結果が、この過労死である。本来は死ぬより前に、「これはダメだ」と気付いて休むか辞めるかするはずである。「辞める」が「過労死」よりも遥かに健全なのは、明白である。

元気ややる気がないなら、何かあると考えるのが正常である。そして、この手の問題は、忙しさそのもの以上に、やり甲斐の問題であることも多い。本人が「自分は役に立てている、成長している」と感じられていれば、多少失敗して叱られていようが何だろうが、続けられる可能性が高い。部活動に打ち込んでいる学生時代と同じである。

やっていることが「無意味」「自分に合っていない」と感じてしまうと、急激に辛くなる。だから、リーダーは、やっていることへの意味付けや、励まし、ケアが大切になる。大きな方針、目標を示すことが大切になる。自分たちのやっていることが、人々の幸せに貢献しているとわかることが大切である。

よくレンガ職人の仕事で例えらえるが「ただレンガを積んでいるだけ」と考えているか「人々を救う大聖堂を造っている」と考えているかで、仕事の意味は180度変わる。

学校に、意味を見出せない子どもたち。学校は、これに正対しているといえるか。「勉強ならeラーニングで十分」「塾の方が点数を取るにはいい」という考(あるいは事実)に、どう答えるか。教師には、子どもが学校に来る意味を、きちんとわかりやすく伝える責務がある。

「いじめられる」「無視される」とわかっている子どもに、「それでも学校に来なさい」と言えるか。その原因への対策を打たずに、とにかく来させることは、身体メッセージの無視と全く同じであり、横暴である。

「不登校は悪」みたいに単純に扱われると、辛い思いをする人が増えるだけである。もしかしたら、子どもが正しい選択をしているのかもしれない。

だからといって、不登校による本人への社会的デメリットは、無視できない大きさがある。だから周囲はそれを無条件に受け入れるのではなく、その理由を探り、本人にとって本当によい対策をうつ必要がある。

学校の問題は、どれも社会の縮図である。社会は、現時点で大きく変わっている。個人の能力や適性に合った働き方が認められてきている。在宅勤務も全く珍しいことではない今、学校の在り方も多様化してくることは間違いない。

仕事の在り方が変わってくるように、学校の在り方自体も、変革が必要である。学校は、何のために行くのか。学校教育に完全適応することにデメリットも、考えるべきところがある。現状で自分にできることはやるが、制度自体の変革も起き得ると考える昨今である。

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