フロント・グリルは車の顔
また、どういう訳か日本メーカーがここ数年の内に軒並みそうなってしまった。うんざりである。正直、車を選ぶ楽しみが少なくなってしまった。原因としては、先に挙げたアウディがそのブランディング戦略において世界的な成功を収めたということがあるのかもしれない。
以前のアウディにはアウディ・クワトロの、ラリーで鍛えられた無骨なイメージがあった。今は、随分洗練された感じである。もっとも、このブランディング戦略は恐ろしいほどの物量作戦であった。ハリウッド映画はアウディだらけになったし、世界中のどの空港にもアウディがディスプレイされていたし、通りを行けば巨大なアウディの看板を目にしない日はなかった。ある種の洗脳型ブランディングである。これだけ徹底的にやってやり上げれば最早グリルの形状などどうでも良くなり「アウディ」としての印象のみが頭に残る。実に苛烈である。
では何故これほどまでにしなければならなかったのか。それは、フォルクス・ワーゲンの巨大化・多ブランド化に原因があるように思う。今現在、フォルクス・ワーゲンは、有名どころだけでも、その傘下に、アウディ、ポルシェ、ベントレー、ランボルギーニ、ブガッティなどを入れている。元よりデザインが特殊なポルシェやランボルギーニを除けばそのグリル形状を以てアイデンティティーとしている。
平たく言えばチームの色分けみたいなものである。そういう意味ではコンセプトが整理されていて分かりいい。しかしながら、どうだろう。ほぼ同じスペックのアウディR8(V10)とランボルギーニ・ガヤルドではどっちがかっこ良いか。あるいは、どっちが欲しいか。おそらく圧倒的多数でランボルギーニであろう。統制的なデザインには限界があるのである。
さて、ここで車好きに改めて問いたい。先に挙げた日本のメーカーの車はかっこ良いだろうか。日本の車のアイデンティティーは統制的なグリル・デザインに集約されるべきものであっていいのだろうか。日本の車の良さはそんなものなのだろうか。
最後に車に造詣の深い外国人の知り合いが、何年か前に日本の某自動車メーカーのスーパースポーツカーに乗った時の感想を引用したい。
「私が今まで乗った中で最高の車の一つだ。ただし、顔を除けば」
「運転するには最高の車だ。ハンドルを操っている限りは外見は見えないから」
また、問う。果たしてこれでいいのだろうか。
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