民主主義は言論に時間を要する
民主主義という概念の基本となるものが、言論です。民主主義は言論コストがかかります。それをスピード感という現代社会のキーワードのなかに沈めて、ワンフレーズで直線的に、さも強さをアピールすることがリーダーの資質であるという考えにも疑問を持つのです。ある一人の意見を無批判に受け入れるのは、専制にほかなりません。
白か黒かをはっきりさせるというわかりやすい二元論は、結論のでないことを考え続けることを拒んでしまいます。「YES or NO?」と尋ねられたときに、YESでもNOでもない答えを選択する余地を残しておきたいと思うのです。
「見つからない答えを考え続けることこそが教養だ」とも言えます。煮え切らない、現代社会に似つかわしくないという意見もあるなかで、じっくり考えを尽くすという作業は、言論を守り、民主主義を守るためにも必要なことだとつくづく考えるのです。
公文書改ざん・破棄は言論を否定する
公文書の改ざんや破棄も、その時に行われた言論をないものとする行為です。公文書に書かれた記録は、民主主義を担保する言論の集合です。また、言論をたたかわせるべき国会の場で言を弄して事実を語らないことは、一つの言論の姿かもしれませんが、果たしてそれで民主主義を守ることができるのか、という大いなる疑問も出てきます。
組織のなかでの個人が自由にものを言えない社会は息苦しいばかりでなく、個と組織の関係についても考えさせられます。同じ思いを持つ個々人が集まって組織をつくっているはずなのに、いつの間にか組織を守るための個人になって自由に意見を言う場を失うこともあります。
投票行動は言論表現の一つ
選挙の度に考えさせられることがあります。組織が一定の政党を支援するということについてです。選挙は票を集めるために、有権者に政策を訴える場でもあります。ところが、大きな組織はその立場を守るために支持政党を決めて、組織内に投票を促します。社会の仕組みとしては理解できるのですが、ここにも言論の不自由さを見てしまうのです。
投票行動も一つの意見表明と考えるならば、一つの言論のあり方です。「投票しても変わらない」という意見は、こうした組織下にある個の無力を感じ取っているからではないか、とも思います。個の意見が吸い上げられないことのむなしさは、投票という言論行動を無意識のうちに抑制してしまうのではないか。そんなことを考えてしまうのです。
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