現代では、ルッキズム(外見至上主義)は悪口の代名詞みたいになっていて、差別主義者と言われたくない人は、人の外見に言及するのをひたすら避ける傾向がある。しかし、こういう人でも、他の条件がほぼ同じだとして、美人とそうでない女性、あるいはイケメンとそうでない男性のどちらを性的なパートナーとして選ぶかを見れば、十中八・九は前者を選ぶだろう。
そしてその理由を問われれば、差別主義者ほど、美人だったから、あるいはイケメンだったから、とは答えずに、優しそうだったからとか、頼りがいがありそうだったからとか、答えるに違いない。
しかし、ルッキズムに無関心を装っている人でも、自分の顔や体の美醜にものすごく敏感なのは、美容に関する商売が一大産業になっていることからも明らかである。ルッキズムは人類に刷り込まれた相当に根深い志向に違いない。人類が100人程度のバンド(小集団)で狩猟採集生活をしていた頃、個々人に富の蓄積はなかったし、集団内の地位が安定的に定まっているわけでもなかった。その時人々は何を基準に性的なパートナーを選ぶのが賢いかと言えば、究極的には、生まれた子が健康で、どれだけ沢山子孫を残せるかどうかであろう。
もちろんどれだけ子孫を残せるかといったことは、結果的にしか分からないが、子孫をたくさん残せそうなパートナーを選ぶ性質が多少とも遺伝的なものであるならば、この性質は自然選択によって集団中に広まり、反対の性質は淘汰されていったに違いない。
個々人の富や地位がさして変わりがない時代に、最も簡単な判断基準は見てくれである。顔が左右対称である人は、そうでない人に比べて、健康である確率が高いので、これを選ぶ性質は選択され、多くの人が左右対称の顔の人に魅力を感じるようになる。魅力は美しいというコトバで表現され、顔のつくりに限らず、シンメトリーは美しいという話になったのかもしれない。
左右対称性がポジティブな性質だと感じるのは、人に関してばかりではなく、野生動物と身近に接する機会が多かったであろう狩猟採集民にとっては、当然の判断であったはずだ。怪我や病気などで左右非対称な個体より、左右対称な個体の方が力強く、狩るのも大変で逃げ足も速い。余りにも強くて手を出せない野生動物に畏敬の念を覚えたということはあり得る。ここから、シンメトリーは美しいという感性が芽生えたのかもしれない。
多くの人が、左右対称以上に美しさを感じるのは、きめ細かく、しみ・あばたがない肌であろう。こういった肌は、多くの現代人にとっては極めてポジティブに感じられる。本を正せば、持ち主の健康をある程度保証してくれるので、そこから、ツルツルで濁りやしみのない存在物を、好ましく、ひいては美しいと感じるようになったのかもしれない。壁に小さな虫が群れで止まっているのを見て、悲鳴を上げる人は多いが、昔、天然痘などの病気で発疹が出た肌を見て、おぞましいと思った遠い記憶が刷り込まれているのだと思う。(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』2022年12月23日号より一部抜粋)
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