現役教師が語る「多様性を認めよう」という言葉の矛盾と負の側面

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日々、メディアやSNSで語られる「多様性を認めよう」という言葉。すでに耳馴染んだ感はありますが、「多様性を認める」は多くの矛盾や不都合をはらんだ言葉になっています。そんな問題に言及するのは、無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教諭の松尾英明さん。負の面を考えたうえで言葉のイメージに振り回されないようにする考え方を明かしています。

多様性の尊重の自己矛盾問題をどうするか

今回は哲学編。多様性の尊重について。

「多様性を認めよう」という声は、もはや世間に浸透しきり、当たり前、常識と化してきた。ただしそれが実際に当たり前に行われているということとはまた別である。「いじめをなくそう」「差別はいけない」といったスローガンが浸透しているのと同じである。ただ世の中で賛成する声が多い考えになったというのがポイントである。

以前にも書いたが、これがどうしても矛盾を生む。

「多様性を認めよう」を全てに適用する場合、「多様性なぞ認めない」というような人の「多様な」意見も認めるしかない。しかし、それを認めれば「多様性を認めよう」という正義に反する。必ず自己矛盾に陥るのである。

全ての「○○しよう」は、正義の主張である。つまり、○○に反する△△は、排除の対象となる。△△派からすれば、○○も正義に反する意見である。正義の主張は、必ず対立を生むという構造上の宿命を背負っているといえる。

「多様性を認めよう」は、一つの正義の主張である。即ち、確実に対立を生む。

教える内容がある程度決まっている学校教育においては、特にこれが難しい。

多様性を認めるとは、例えば使用言語もバラバラでいいということだろうか。これでは、会話自体が成立せず、カリキュラムが決まっている内容の教育は、ほぼ不可能である。

多様性を認めるとは、学校に来なくても、あるいは勉強をしなくてもいいということだろうか。教師の言うことを全く聞かないことすらも「多様性の尊重」になる。それでは、一切の教育が成り立たない。

多様性を認めるとは、何をしてもいいということだろうか。それは、ルールを一切守らないことすらも認めざるを得なくなる。そうなれば、社会としての崩壊状態である。

つまり「多様性を認める」は、全ての思想や行動を認めるという意味で受け取ると、不都合だらけになる。

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