ノーベル賞を受賞した大村智教授、成功の秘訣は「出会いを大事にすること」

 

北里柴三郎の「大医は国を治(ち)す」

昭和40(1965)年4月から、大村は北里研究所での勤務を始めた。この研究所は、近代日本が生んだ傑出した医学者・北里柴三郎が創設したものである。大村は北里柴三郎の業績を調べてみて驚いた。各種の資料を読めば読むほどその偉大さに敬服し、深く傾倒していった。

北里柴三郎は明治18(1885)年、ベルリン大学の主任教授ロベルト・コッホのもとに派遣され、研究に打ち込んだ。日本が開国して間がないので、祖国の名を欧米に高めようと、「世界的な学者になるつもりで勉強している」と語っている。

やがて世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発した。共同研究者のベーリングは第1回のノーベル生理医学賞を受賞したが、北里は惜しくも逃した。

北里の名声は欧米に広まり、いくつもの有名大学から誘いを受けたが、断固として断り、帰国した。明治天皇から「帰朝の上、我が帝国臣民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」とその理由を述べている。

帰国後は北里研究所を創設して、ペスト、赤痢の病原菌の発見など世界医学史上に残る研究業績を上げつつ、伝染病患者の治療、各県の衛生担当者の教育、免疫血清の製造と、大車輪の活躍をした。「大医は国を治(ち)す」が北里の若い頃からの志だったが、それを見事に実現した一生だった。

大村のその後の歩みはまさに北里の足跡とよく似ている。北里との出会いが大村に指針を与えたのだろう。

ティシュラー教授の誠意に打たれて

 大村は北里研究所で次々と成果をあげていった。他大学や企業からも誘いの声が掛かるようになったが、化学、薬学、医学、細菌学などにまたがる学際的な研究のできる環境に満足していたので、誘いはすべて断った。安月給で、研究用の材料を自腹で買ったり、部品は自分で手作りするなど、待遇は不十分だったが、研究のやり甲斐を感じていた。

東京大学から薬学博士号も授与され、昭和44(1969)年、34歳にして助教授に昇進した。周囲からアメリカへの研究留学を勧められ、大村は自分を売り込む手紙を5つの大学に送った

驚いたことに、すぐに電報で週給7,000ドルで客員教授として迎えたいという返事が、東部の名門ウェスヤーレン大学のマックス・ティシュラー教授から来た。英文で多くの論文を発表していた大村の名前はアメリカでも広まっていて、他の大学からも手紙で返事が来た。なかには週給1万5,000ドルなどという誘いもあった。しかしティシュラー教授の誠意に打たれて、週給では最低だったが、ウェスヤーレン大学を選んだ。ここからノーベル賞への道が開けていく。

大村がウェスヤーレン大学に着任した時、ティシュラー教授はすでに化学界のボス的存在で、大物研究者が次々と訪れてくるのに、大村は驚くばかりだった。しかもティシュラー教授は彼らに大村を自分の同僚として紹介した。

そんな形で紹介された研究者の1人が、大村をさらにハーバード大学のコンラッド・ブロック教授に紹介してくれた。ノーベル生理医学賞を受賞した権威である。大村が当時、勧めていた研究を説明すると、ブロック教授は身を乗り出さんばかりの興味を示し、共同研究を進めよう、ということになった。

ブロックはハーバード大学でも大村のためのデスクを準備し、大村も積極的に訪問するようにした。この積極性でアメリカでも一期一会の縁を生かしていった。

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