ノーベル賞を受賞した大村智教授、成功の秘訣は「出会いを大事にすること」

 

出会った人々の助言助力で研究者の道に

夜間高校の教師から研究者への転身の過程でも、大村は出会った様々な人々に導かれた。教師となった2年目の春、山梨の実家に帰った時、大学時代の恩師を訪ね、学び直したいという決意を伝えると、学者仲間の東京教育大学教授の小原哲二朗を紹介してくれた。小原への紹介状を得て、その講義を聴講するようになった。

小原の研究室に出入りしているうちに、大村が夜間高校の教師をしながらも、本格的に化学の研究をしたいという希望を持っていることから、有機化学の分野では世界的に知られている東京理科大学の都築洋二郎の研究室に大学院生として入るのがいいのではないか、と勧められた。

その勧めに従って、ドイツ語などを猛勉強し、東京理科大学の大学院修士課程に入学したのは、昭和35(1960)年4月だった。昼は大学院で勉強、夜は高校の教師、週1日の高校の研究日を金曜日として、金土日の3日間は大学で実験をする、という生活が始まった。

都築の研究室では、核磁気共鳴(NMR)を応用して有機化合物の構造を調べるという、当時の最新技術を研究する幸運に恵まれた。ただし、NMR装置は当時、東京工業試験所に1台あるだけだった。人づてで、この装置を夜間だけ使わせて貰う、という許可を得て、徹夜の実験を繰り返した。

研究室では、細かな指導は講師の森信雄から受けた。森は大村を弟分として可愛がり、実験のやり方から論文の構成まで面倒を見た。徹夜でNMR装置を使って集めたデータをもとに、森の指導を受けながら、最初の研究論文をまとめた。

都築は「日本語で論文を書いても外国人は読めないから実績として認めないし、研究成果も正当に評価してもらえない。論文は必ず英語で書きなさい」と指導していた。それで論文は英語で書いて、学会の欧文誌に投稿しようということになった。都築の教えを守って、大村はその後に発表した論文の95%を英語で書いた。

こうして大村は研究者の道を歩み始めた。その過程で、出会った人びとは大村のために助言・助力を惜しまなかった。大村の「自分はもっと何かをしなければ済まない」という真剣な志ちが伝わったからだろう。

「だったら世界を目指せばいいじゃないか」

大学院修了の目処がついた頃、山梨大学の助手としての採用も内定した。父親は大村が地元に帰ってくることには喜んだが、秘かに将来を心配し、山梨でも学識のある偉い先生に相談にいった。

大村の経歴を見た先生は「この経歴だったらあまり将来性がない。せいぜいよくても大学の講師どまりだろう。このまま高校教師を続けて、将来は校長にでもなればいいのではないか」と言った。

父親は大村にその意見を正直に伝えた。大村は思った。「日本では講師どまりかもしれない。だったら世界を目指せばいいじゃないか。その方がやりがいがある」。

昭和38(1963)年4月、大村は山梨大学工学部発酵生産学科の助手として赴任した。しかし東京で最先端の研究をしていた大村にとっては、ここでの研究は手応えがなかった。そこに東京の北里大学樂学部で化学の研究員を1人募集しているのが、どうか、という話が持ち込まれた。

条件は大学新卒者と同じということだったが、大村は「やります」ときっぱり返事をした。

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