散りゆく若者たちを見送り続けた「特攻の母」と、季節外れの蛍の物語

 

少年兵たちのオアシス

昭和17年、知覧に飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場)が出来て、富屋が軍の指定食堂となった時、女主人トメは数え年41歳であった。指定食堂と言っても、健全で清潔で安心して軍人が立ち寄れる所だと推薦してくれるだけの事だった。

過酷な訓練に明け暮れ、たまの日曜日に外出しても、何の娯楽もない少年兵たちに、富屋はたちまち大人気のオアシスとなった。少年兵たちが壁にかかったメニューを見ていると、小母さんが中から出てきて「何か食べたいものはあるかね」と聞く。

「食べたいものなら、何でも作ってあげるよ。そのために日曜日には材料を用意してみんなの来るのを待っているんだからね。何でも言ってごらん」

少年たちがもじもじしていると、アンコロ餅はどうか、と聞く。少年兵たちの顔が緩むと、さっそく1個作って、この大きさなら何個欲しい、と聞く。「3個!」「おれも!」

ためらいながら「天ぷら」と言う少年兵には、「おとといあたりから海がしけていて、白身のいい魚がないから、イカとエビと野菜だけで我慢してくれる?」

「でも」

「でも、なあに」

「おれ50銭しか持ってないんだ。エビって高いんだろ」

「アハハ」とトメは笑う。

「男はおカネの事は言わないの」

着物や家財道具を売りながら少年兵たちに食べさせてやるので、トメの家は少しづつ広くなっていった。

時には、「本日休業」の札を出して、少年兵たちに貸し切りにしてしまう。少年兵たちは畳の部屋に寝そべったり、トランプや将棋に興じたり、郷里に手紙を書いたり、小母さんの手料理に舌鼓を打つ。風呂で背中を流して貰うこともあった。

いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて

3月27日に娘の礼子が知覧の飛行場に動員され、木立の中に三角屋根の特攻隊の兵舎が作られている、という情報をもたらした。

翌日夜、小林威夫少尉が訊ねてきた。かつて教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に下宿を探してやったりして、わが子同様に可愛がった青年である。「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれてこんなうれしい事はありません」と言う。トメはいそいそと小林の好きなものを作ったが、小林は何ものどを通らない様子。

「今度はどちら方面に行くの」と聞くと、「小母さん、聞かないでくれよ」。トメは気がついた。もしかして、この人はあの特攻隊に選ばれたのだ…、いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて、自分の娘たちとあまり齢のかわらぬこの子が明日には死んでしまうなんて、そんなことってあるのだろうか。

この思い出を持ってあの世に行きます

できることなら、トメは小林少尉の肩を抱いて泣きたかった。しかしそれはできない。立ち上がって、廊下に出ると、かっぽう着の裾で涙を拭いた。涙はあとからあとから途切れることなく流れ落ちた。

翌日、小林少尉は最後のお別れに来た。昨夜より気持ちがふっきれたのか、むしろ淡々として見えた。

「小母さん、これまでのことはほんとうにありがとう。小母さんには実のおふくろよりやさしくしてもらった。忘れませんよ。この思い出を持ってあの世に行きます。達者で長生きしてください」

トメは必死に涙をこらえながら、手作りのおはぎを渡し、「部下の下士官の方へさしあげてください」と言うのがやっとだった。小林少尉は最後の敬礼をし、トメは黙って頭を下げた。少尉はゆっくり回れ右をして、飛行場の方に戻っていった。

そうだ、せめて親御さんにあの方が立派に旅立っていったことをお知らせしなければならない。手は震え、文脈は乱れ、涙はとどめなくしたたり落ちる。

「よみにくいペン字 おゆるし下さい ただ いそいで お知らせまで」

父親の名前は知らなかったので、「小林少尉殿の父上様」と結んだ。それからは何度もこうした悲しい手紙を書かなければならなかった。

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