散りゆく若者たちを見送り続けた「特攻の母」と、季節外れの蛍の物語

 

「ぼくは朝鮮人です」

光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、昭和18年、特別操縦見習士官を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパイロットとなった。日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でどこか寂しい人柄だったので、トメはなるべく明るく接しようとした。

彼は最初から「ぼくは朝鮮人です」と言っていた。元の名を卓庚鉉と言い、幼い時に父母とともに日本に渡ってきたのだった。当時の日本人の中には朝鮮人に対する差別意識を持った者も多かったので、トメは光山をよけい大事にしてわが子同様に可愛がった

半年のちに知覧を卒業して、各地の部隊を転々として、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」とはがきをよこした。その光山が昭和20年5月の初め、「小母ちゃーん」と呼びながら、富屋に戻ってきた。トメはすぐに事情を察した。その頃に知覧に戻ってくるのは、特攻隊員になった者だ。それから光山は毎日のように入り浸った。

光山の母親はその前年の暮れに亡くなっていたという。息子が日本でばかにされないようにと、必死で働いて学歴をつけさせたのであろう。また息子の方も特別操縦見習士官を志願したのは、立派な軍人姿を母親に見せてやりたかったのだろう。

今生の別れの歌アリラン

5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。

「長いあいだありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でもおれは朝鮮人なんだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」

「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」

トメはそっと目頭を押さえた。

「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」

「まあ、光山さん、あんたが歌うの」

孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐいと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。

アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ

トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出したが、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だった。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデンティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。祖国を守るためにその祖国とは日本ではない。日本と運命をともにしていた朝鮮だ。

昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、採用6,300人の50倍近くだった。大戦中は24万2,341人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1,000余柱が靖国神社に祭られている。特攻隊員として出撃散華した朝鮮人軍人は光山少尉を含め14名である。

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