散りゆく若者たちを見送り続けた「特攻の母」と、季節外れの蛍の物語

 

観音像の建立

戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面に立てて、娘たちにこう言った。

「さ、これが今日からあの人たちのお墓の代わりだよたったひとつしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」

特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる時代だった。墓など作ったらすぐ壊されてしまう。こんな棒杭なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りにくるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。

昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊への逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公に行われなければならなかった。

昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それからトメは毎日ガムやキャンデーを持って、観音像の所へ行き、遊んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分の死後もこの子供たちの中から観音像をお守りしてくれる人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る道に石灯籠を寄進する運動を進めていった。

昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。

4月の蛍

平成4年4月22日夕刻、トメは90歳直前で一生を終えた。「特攻の母鳥浜トメ死す」のニュースは新聞やテレビに流れ、富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺族が一息入れた所に、1匹の蛍が光る尾を引いてトメの柩のある部屋をスーッと横断していった

「見たか」

「見た」

「蛍だったよな」

「そうだったよな」

4月の下旬に蛍が飛ぶはずがない。それも部屋を横切っていくなんて。しかし、居合わせた人々は確かに見たのである。

それは蛍になった宮川軍曹が「小母ちゃん」を迎えにきた姿なのだろうか。それともトメ自身が蛍となって、息子のように可愛がっていた大勢の特攻隊員たちのもとに飛んでいったのだろうか。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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著者/伊勢雅臣
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