鎌倉幕府はイイクニからイイハコへ?なぜ成立の年号が曖昧なのか

 

その一方で、頼朝がこの時点で征夷大将軍を望む理由もよく分からない。これが奥州藤原氏征討以前なら分かる。それこそまさしく征夷大将軍の職掌だからである。また、後白河法皇にしても、わざわざ鎌倉から上洛して来た武家の棟梁頼朝に対して、如何様にも名称を付けられる官位相当もない臨時の将軍職の提案などしづらかったのではないか。すぐ前の源義仲の「征東大将軍」の凶例があるからだ。

そういった両者の立場を考えると、もとより「右近衛大将(右大将)」が頼朝の本命だったのではないだろうか。この、左大将と並ぶ常設武官最高位に就くということは武家の棟梁として十分な権威付けとなった筈だからである。ただ、それが在京官職であることが問題だったため、一旦は任官するもすぐに辞退したのである。一旦は任に就いたというところが大事なのである。

そうすることによって「前右大将」となり、その肩書きにぶら下がっている職権をそのまま鎌倉に持ち帰ることができるからである。そもそも「征夷大将軍」が本命で、さらに「右大将」もすぐに辞退するのであれば、最初から「右大将」にならなければいい話である。

頼朝が鎌倉に持ち帰ったこの「前右大将」は「前右大将家」のように、今で言う「将軍家」のような意味合いで以後用いられたし、「前右大将家政所」というように機関の名称にも付けられた。こういった事実からも分かる通り、頼朝は「右大将」こそが武家の棟梁としての地位を権威付けるのに最も相応しい官職であると捉えていた筈である。故に、これを以て鎌倉幕府成立と考えたいのである。

言うまでもないことかもしれないが、「幕府」は「近衛大将」の唐名であるということをここで傍証として付け加えておきたい。

ただ「征夷大将軍」に関しては、頼朝上洛の折に、後白河法皇あるいは九条兼実あたりと「私頼朝は、『征東大将軍』木曾義仲や『鎮守府将軍』藤原秀衡を朝廷のために討ち倒しました。そして私はこれからも、彼ら以上の高い忠誠心をもって朝廷にお仕えしたいと思っております。つきましては、それに相応しい名の将軍職を賜りたいと思っているのです」といったような話をしたかもしれない。

これは飽くまで想像だが、仮にこのようなやり取りがあったとするなら、頼朝の「征夷大将軍」任命が遅れたことも納得できるのではないか。つまり、頼朝の希望を酌むなら義仲の「征東」も秀衡の「鎮守府」も駄目である。さらに、義仲は「(征東)大将軍」であるから、最低でも「大将軍」を付けなければまずかろう。などと思案しているうちに一年余が過ぎてしまい、結局1192年になってしまったということである。

最後に結論としてまとめておく。

鎌倉幕府の成立年は、江戸から遡って後付け的に「幕府」を捉えた場合→ 1192年(頼朝の征夷大将軍就任)
中世前半の固有の武家政権として「幕府」を捉えた場合→ 1190年(頼朝の右近衛大将就任)

と考えられるのである。

image by: Wikimedia commons

 

8人ばなし

著者/山崎勝義

ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。
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