おなじみのネット百科事典・ウイキペディアでは、長野県中信地域の山賊焼の名前の由来として、二つの説を紹介している。山賊焼について、調査研究したり詳しく言及したりした本はどうもまだないようである。
その一つは、中信地域塩尻市の店「山賊」を元祖とする説。この店から山賊焼が広まったともいわれる。ウイキペディアでは、こちらの説の方が有力であるとしている。この店は今も塩尻駅前付近にあるようだ。私自身はまだ取材してないが、ネットの情報では、のれんには「食事処 元祖 山賊」とあり、山賊焼専門店とか。昔は違った場所にあったらしい、場所は変わっても店は数十年来の歴史がありそうだ。この稿を書くのに電話でいろいろ聞きたかったが、夕方からの営業らしく直接、話しが聞けなかった。
名前の由来、もう一つは、松本市浅間温泉にある河昌による、「山賊はものを取り上げることから、『鶏揚げる』との語呂を合わせた」とする説。この河昌のホームページに、「山賊焼きの由来」なるものが載っている。その要旨をちょっと紹介してみよう。
店主は安曇村稲核(現・松本市安曇稲核)に生まれ育った。子供の頃、よくおばあさんがこんな話をしてくれた。「昔は『山賊』がおって、旅人のものを取り上げていったそうな」子供ながらに「山賊っておっかねえなぁ(怖いなあ)」と思って過ごしたことを覚えている。
ある日、店のメニューを考えていたときに、ふとそんなおばあさんの話を思い出し「『取り上げる』→『鶏揚げる』。そうだ、鶏肉を豪快に揚げた料理を『山賊焼』と銘打って、店のメニューで出そう」。「取り上げ」を「鶏揚げ」にかけて、また山賊の傍若無人なイメージを鶏肉の一枚肉を豪快に使った料理になぞらえて作ったのが始まりだった。その後、おいしい鶏肉を探し求めて県内各地を行脚、武石村の地鶏にたどり着き、秘伝のたれの味を求めて試行錯誤、ようやく今の味に。
そして、今でこそスーパーの惣菜コーナーでも売られている山賊焼だが、昭和28年当時は、その特異な名前から「『山賊』だってよ~」とよく中傷されたり、笑われたりしたものだったが、今でこそ懐かしい思い出だと述懐している。
昭和28年といえば、半世紀以上も前である。今となればどちらが元祖だとあまり詮索してもせんのないことかもしれない。いづれの店も山賊焼の普及の大きなファクターになったことは間違いないだろう。
image by: 信州・松本 浅間温泉 山賊焼きの河昌HP