「ママの味」は焼け跡から生まれた。不二家ミルキー誕生秘話

 

不二家のウェブサイトにあるミルキー資料館から、ミルキー誕生秘話のあらましを紹介しよう。なお、現在までにミルキーと名のついたお菓子は、キャンディのほか、ドリンク、チョコレート、またいろいろなティストのミルキー、期間限定商品とバリエーションが広がっている。

1951年(昭和26年)の発売以来、半世紀以上、ロングセラーを続ける”ミルキー”は、初代社長の藤井林右衛門の意気に燃える青年のような夢からスタート。戦災で焼け残ったボイラーたった一基を手掛かりに、彼は戦後いち早く沼津工場を再建。ここで水アメと練乳の製造を開始

水アメと練乳、二つの製菓材料を手にした林右衛門はこれをなんとか結び付けようと思案。以来、自宅に程近い鶴見工場に暇さえあればこもり、試作と吟味を繰り返した。1949年(昭和24年)~1950年(昭和25年)頃のことである。

胸にあるニュー製品、幼児を対象とし、やさしい「ママの味」をキャッチフレーズとする構想はすでに固まっていた。だから新製品は、母親の愛情を表すようなやわらかい味母乳のなつかしさを感じさせるようなお菓子でなければならない。

丸2年の間何十何百の試作品が作られ検討されたといわれる。ようやく完成したのは、1951年(昭和26年)。練乳を50%近く使い、思い切ってまろやかな味を出したため、砂糖3.75kg(1貫目)が2000円、バターもまだろくに出回らない、米の値段が60kg、2800円という当時としては考えられないほどぜいたくいっぱいのお菓子だった。

開発段階では、”ジョッキー”と名付けられていたとされるが、「牛乳そのままの味を生かした」というイメージから、”ミルキー”という名で発売された。まずは銀座店でテスト販売、そして全国販売するための条件が整ったと判断された1952年(昭和27年)、いよいよ各地の小売店への卸売りが開始された。

今までにない新しい感覚とおいしさ豊富な栄養、それに10円の廉価という三拍子揃ったこのキャンディは、またたく間にたくさんの子供たち、そして母親たちに支持され大ヒット、不二家の名を全国に浸透させる役目を果たした。キャンディの箱のデザインの秀逸さ、描かれているペコちゃんの愛らしさなどもヒットに大いに寄与したことだろう。

 

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団塊の世代以上には懐かしい郷愁の食べものたちをこよなく愛おしむエッセイです。それは祭りや縁日のアセチレン灯の下で食べた綿飴・イカ焼き・ラムネ、学校給食や帰りの駄菓子屋で食べたクジ菓子などなど。

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【著者】 UNCLE TELL 【発行周期】 月刊

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