利他心の発達が、他者との絆をもたらす
黒木を立ち直らせたのは今田との友情であり、また今田を立ち直らせたのは、野田校長の「お前は男の中の男だ」という一言だった。人との絆の中で、子供たちは「心の居所」を見つけ、立ち直っていく。
しかし人との絆を作るためには、人は他者への思いやりを持たなければならない。利己心だけの人間には、他者との心の絆を持てない。
幼児は自分のことしか考えられない自己中心の時期を経て、やがて他者への思いやりを学び、他者のために尽くそうという「利他心」を育てていく。子供から大人への成長とは、利他心の発達に他ならない。
不登校・引きこもり系も、ヤンチャ系も、自己中心的な幼児の段階に留まっていて、利他心が発達していないという点で、共通している。なぜ、彼らは利他心の発達障害に陥ったのか。野田校長はその原因を、戦後の人権教育にあるとする。
利他心がまだ充分に育っていない子供達に「権利」という訳の分からない抽象概念を教えたらどうなるか。
本能のままに、わがままに、自己中心的であることが権利であり、それが正義だと思ってしまう。
(同上)
そんな思い違いをした自己中心的な子供達ばかり集まったクラスは、弱肉強食のジャングルである。弱い子は孤立して不登校になり、強い子は暴力で他者を従えようとする。黒木太一や今田良一は、こういうクラスの中で、成長を阻まれた犠牲者であった。
「教育者は聖職者である」
「教師は労働者である」とは、日教組の「教師の倫理綱領」での規定である。教師は教育という「労働」を売って、その対価として、給料を受けとっていると捉える。マルクス主義の「労働者」であるから、今まで資本家階級に搾取され、自身の権利を階級闘争で勝ち取らなければならないという恨みが籠もっている。
そこにあるのは利己心のみで、目の間の一人の子供と向き合い、どうやってその子を育てようか、という教師としての利他心は存在しない。
「教師は労働者である」という捉え方を排して、野田校長は「教育者は聖職者である」と断言する。聖職者とは、自らの任務に使命感を持ち、それを自身の利益よりも優先する人々だ。それは利他心の発露そのものである。自衛官、警官、消防士は言うに及ばず、どんな職業でも、この姿勢さえ持っていれば聖職者なのだ。
特に教育者は利他心を持って子供の成長を導き、また子供たちからその利他心を真似される存在でなければならない。黒田太一や今田良一を利他心のある立派な大人に成長させたのは、野田校長をはじめとする勇志高校の先生たちの利他心にほかならなかった。