それにしてもこの心理的屈折は何であろう。自分の審美眼を承認してもらうには売れてもらわなければならない。しかし売れると独占したいという気持ちとは裏腹の結果となってしまう。この論理はどうしても心理的屈折を生むのである。
おそらくそれは、受動的支援の限界とでも言うべきものに起因するのであろう。一方、実際にプロデュースしたりディレクティングしたりすることは能動的支援である。この能動的支援の輪はそのまま利害関係の輪となるものだから内々にでも心理的屈折は存在しない筈である。売れればその利害関係者である自分たちも喜ばしいのは当たり前のことだからである。
こう考えると、受動的支援は相乗りというより、やはりただ乗りに近い気がする。ただ乗りだから行き先に口は出せないし、ただ乗りだから誰が乗って来ても文句は言えない。できることと言ったらせいぜい飛び降りるくらいのことであろう。
とは言え、誰もが能動的支援者になれる訳ではない。時間的問題もあるし、経済的問題もある。胆力の問題も大きかろう。そもそも仕事としてその場に居合わせることがまず普通はない。
だから我々はただ乗りをするのである。そうすることで、自分の人生の彩を補完し、誰かの人生を追体験し、別の可能性を夢想するのである。所謂ファン心理なるものも分析してみれば、その実こんなものなのかもしれない。
ただここに、一つだけ確かなことがある。それは一番最初に「この曲いいな」「この子かわいいな」「この絵すてきだな」「この…」と直感的に思ったその感性だけは真に純粋なものだということである。この時の「好き」ほど純度の高いものはないと思うのだがどうか。
いつまで経っても、どんなになっても嫌いになれないのは、実にこの出会い故ではないだろうか。そんなふうに思うのである。
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