日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんは今回、中学生の時に先生から聞かされた海での事故の体験談を紹介。その話から、死が間近に迫っていると知るべき状況を理解し、さらには生きていくことについて、ひとつの真理を見出しています。
先生が語ってくれた話
中学の時、社会科の先生から聞いた話である。その先生からは知識よりも寧ろゲンコツの方を多くもらったくらいだから実のところあまり良い記憶はないのだが、そういった良し悪しの問題を遙かに越えて、その話は今も猶はっきりと心の内に残っているのである。
その先生は釣りが好きであった。その日も予てよりの約束もあって、いつもの釣り仲間3人で出かけたのである。その日は冬であった。釣りを始めてしばらくすると、どういう訳か急に天気が悪くなり海は荒れ模様となった。「これではさすがに」と帰り支度を始めた途端に仲間の一人が海に落ちた。それを助けるべくその先生は海に飛び込んだ。もう一人の仲間も続いて飛び込んだ。結果、その先生だけがクーラーボックスか何かに引っ掛かって助かり、他の2人は死亡した。
死亡者まで出たということもありこの事故は地元ではそれなりに大きく取り上げられ、結果学校関係者は勿論のこと、その地域一帯で知らぬ者はいないほどであった。ただ生存者が1名いるということもあり大っぴらにあれこれ言う者はいなかったように思う。確かこの事故が起こったのは私が中学に入る数年前のことだった。
海水がおいしい?
その先生がある日の授業中、何を思ってかぼそぼそとその時のことを語り始めたのである。
「…助けようと飛び込んだはいいが忽ち自分の身体がいうことをきかなくなった。まるで他人の身体のようである。正直どっちが上でどっちが下かも分からぬ状態であった。それでも泳がなければ仲間も自分も助からない。必死に泳ごうとはするが波に呑まれるたびに大量の海水が鼻や口から流れ込んでくる。これが恐ろしくつらい。鼻は痛く、息は苦しい。この海水に抵抗するだけでも相当しんどかった…」
ここで先生の声が少し変わった。その声はいつもより落ち着いた感じに聞こえた。
「…ところがどういう訳か、ある瞬間から飲まないようにするからつらいのであって、いっそ飲んでしまえばいいのではないか、と思えて来た。そこで意を決して一口ごくりと飲んでみるとこれがやたらとおいしい。こんなにおいしいなら今まで抵抗して損をしたとばかりにその後ごくごくと飲み込んだ。これ以後は憶えていない…」
「海水がおいしい」。普段レトリックを使ったりしない先生だったので余計に生々しく感じた。正直海水がうまい筈がない。この時、現実に起こったことをただただ生理的に分析すれば、低体温と低酸素から脳内モルヒネを始めとする多幸に関連したモノアミンが大量に出された結果、突然不快が快となった訳で、世に言う臨死体験談の類とそう変わりはない。
けれどもこの話を聞いて以来「海水をおいしいと感じたら、つまり自分にとっての不快が突然快になったら、死がこの身に間近に迫っていると知れ」というのが自分の死を感じる上での大事な指標となったことは確かである。
逆に、生きようと思えば、海水を飲んではいけない。吐き出し続けなければならない。絶え絶えの息の中で息をし続け、もがき、抵抗し続けなければならないということである。
私は今も苦しい。幸か不幸か相変わらずに苦しい。依然として海水もまずい。ちっともいい気持ちにもなれない。これが、これこそが「確かに生きている」ということなのだとしたら、人間が生きるということに対して大いに同情的にならざるを得ない。今まさに生きている当事者としてこう思うのである。
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