名詞から考える「最強の悪魔」とは?
では実際、名詞で考えたときに最強の悪魔=最強に恐れられる名詞とはなんだろう、と疑問に思いました。
代表的に考えられるものといえば、やはり「死」でしょうか。確かに登場する「銃の悪魔」や「コウモリの悪魔」「ヒルの悪魔」「暴力の魔人」などは、人に害を与えるので恐れられており、力も強いです。
でもよく考えてみてください。「銃」を恐れるのはなぜでしょうか。それで撃たれたら、「死んでしまうから」です。こう考えると、「コウモリ」「ヒル」「暴力」…いずれも「死」に近づくから恐れられているのだと気づきます。
つまり、総合的に強い悪魔たちを通じて恐れられてるものは結局「死」ではないかと思うのです。もちろん、作中には「死の悪魔」などというのは出ていないのですが。
しかしながら、話はここで終わりません。「死」を恐れない人というのも、ときにはいます。もうやけになって「死んでもいいや」と思う人もいれば、「死してなお、義のために戦う」みたいな人もいいます。「自分の死が何かの役に立つならそれでいい」と思う人は、きっと死を恐れていないでしょう。そう考えると、実は「死」は最強な悪魔ではない、と思うのです。
もっと最強の悪魔がいるのではないか…そこで自分が思い至ったのが、「無意味の悪魔」です。
人が生きる「意味」
一見、特に恐ろしい印象もないワードかもしれません。しかし精神学者フランクル先生は、次のように言っています。
「人間には意味への意志がある」
人は「自分は意味がある存在なのだ」と思って、そのために生きていくことを望んでいるそうなのです。すなわち、意味を持つことが最大の目標であり、生まれてきた意味や使命を考えて行動することが人間の生きる価値なのです。確かにそう考えると、
「毎日がつまらない」
「死にたい」
と思う人は、今まさに生きてる意味をなくしていると言えます。ここから先どう生きていくか・どんな人生を送ろうか、というのが見えていないのですね。
しかし、どんなに希望がない人でも目の前に死にそうな人がいて、それを助けたとしたら「自分は生きててよかったんだ」と感じるはずです。または、パートナーや子供・孫ができたとします。自分が死んだら、パートナーや子供・孫など大切な人が生きていけなくなってしまう。そんな状況になれば、その人は絶対生きようとしますよね。あるいは死に直面したと人が、自分が死ぬ代わりに体の一部を他人にあげて、その人が生きながらえることができるとするならば、死を選ぶこともあります。
なぜ上記の人たちは生きようしたり、死を恐れなかったりするのでしょうか。自分の意思・行動・命に「人のため」という意味が生まれたからです。意味というのは生きるエネルギーになるだけでなく、時として死より強いものなのです。でももし、臓器などを残すこともできずただ燃えて死んでしまうとしたら、その人は死を恐れると思います。自分の命に意味がなくなるからですね。
このように、意味がなくなること=無意味こそが最大の恐怖であり「支配」よりも「死」よりも強い、それが「無意味の悪魔」ではないかと思うのです。
でも『チェンソーマン』の中に「無意味の悪魔」が出てきたとしたら、これもあくまで想像ですが、出てきたとしてもぼやーっとしていて怠惰な雰囲気で、「もう人生無意味~」とか言ってダラダラしてそうですね。それって全然怖くないんじゃないかと思いました。
『チェンソーマン』を通して、人生の重要なものについてお話しました。重ねてになりますが、人間というのは「意味」のために生きています。僕は今日〇〇のために頑張ったんだこれが好きだから、追求することが私の意味なんだそう思えるものを見つけていくのが大切なんですよ。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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