橋本聖子氏「私は父に鞭で叩かれた」自ら明かす生い立ちと両親。五輪組織委新会長に就任した「五輪の申し子」の知られざる過去

2021-02-18 9.50.32
 

いま東京五輪組織委員会の森喜朗会長の「後任人事」で注目が集まっている橋本聖子五輪担当相(56)ですが、オリンピック選手だった当時の頃の映像や話は聞こえてくるものの、幼少期の様子について伝えているメディアはほとんどありません。ライターの根岸康雄さんがコミック雑誌のコラムとして90年代初頭から約10年間インタビューを続けてきた芸能人や文化人らが自身の親について語ったエピソードを毎号貴重な写真とともにお届けするメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』では今回、話題の橋本聖子氏が自身の両親との思い出を話した貴重なインタビューを紹介しています。

※本記事は有料メルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』2021年2月18日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

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橋本聖子~父・善吉 母・慶子へ「良い面も悪い面も、私が一番、父の気持ちを受け継いでいると思います」

橋本聖子(1964年10月5日 ~)自由民主党所属の参議院議員(5期)、元スピードスケート・自転車競技選手。内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当大臣、公益財団法人日本スケート連盟会長、公益財団法人日本自転車競技連盟会長。公益財団法人日本オリンピック委員会副会長。2021年2月、森喜朗氏の辞任にともない2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長に就任。

以下は19年前のインタビューである。確か参議院会館の彼女の事務所だった。厳しい父親だったという。日本人の輪郭と、日本人の美意識を再認識する、そんなテーマを掲げるこのシリーズ、彼女が語ったことが日本の父親像の一つなのか、あるいは日本人の美意識を物語るのか。はっきりとは言えない。彼女が育った環境が“DV”とかそういう類のものだったかどうか。彼女にとっては最高の家庭環境だったのだろう。何せ、手にした栄光の数々は、彼女が語った家庭環境に根付いているのだから。奇しくも先日、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任した森喜朗の女性差別発言がふと、よぎった。(根岸康雄)

厳しい父でした。言葉よりも先に手が出てきて……

厳しい父でした。子供は可愛い、だからこそ将来、辛い思いをさせないために父は厳しく接したと、後年母から聞きましたが、それは人によっては虐待と、とられかねないものでした。

「おはようございます!」

挨拶の時は、正座をして三つ指をつかなければいけない。ご飯を給仕して父に手渡すときは、必ずお茶碗に両手を添えて渡さなければ許されない。胃薬でも父が薬のビンに手をかけた間に、水の入ったコップを出さないと強い口調で怒られる。

家は主にサラブレッドを生産する牧場でした。北海道ですので冬は吹雪ますから、ガレージの扉は開けておく。外出した父が帰宅した時は父の車のヘッドライトが遠くに見えると、家族は急いで外に出て、ガレージの扉を開く。父の運転する車が一度も止まらずに、ガレージに入れるようにしなければ怒られました。

「バカヤロー!! 何やってるんだ!!」

怒られた時の私をにらむ父の目は怖かった。父は絶対に妥協を許さない人でした。出来て当たり前で出来ない時は厳しかった。汚い言葉で叱責されました。時には言葉の前にいきなり手が出て殴られることもありました。

父は聖子と名付けたぐらい、私をオリンピック選手にしたかった。将来、どんな競技をやるにしても、オリンピック選手になるための反射神経や感覚を身に付けさせるためには、馬に乗ることがいいだろうと。牧場の馬場で私は幼稚園に入る前から、ポニーという小さな馬で乗馬の訓練をしました。

私がちょっと油断をした瞬間に、父はいきなりポニーに馬に鞭を入れる。驚いたポニーは思い切り走り出す。それでも落馬しない、そんな訓練をずっとやらされました。だから私は、小学校に上がる前から、ロデオのような荒馬でも落ちずに、しがみついていることが出来ました。

馬場の下は砂地なので落馬しても、大したケガはしませんでしたが、父には激しく叱られる。私は父に鞭で叩かれました。

──痛い……

でもその痛さよりも、父を怒らせてしまった、どうしてちゃんと出来ないのか、父の思う通りにちゃんとやらなければという気持ちのほうが強かった。

人に厳しい分、自分に対しても厳しい姿勢で生きる父

私や家族の誰かが父に叩かれても、助けに入ることは許されませんでした。

「ヤキを入れる」

それは手をあげる時の父の言葉でした。「お父さん止めて」とか、助けに入ると連帯責任で、家族みんなに父のヤキが入る、助けちゃいけないことになっているんです。

父に一切逆らわず、父の後を三歩下がってついていく、そんなタイプの母がときには父に叱責され、叩かれている姿を見るのは嫌でしたが、でもその原因は私にあったのではないか、そんなシーンを目にするたび、申し訳ないという考えを抱いたものでした。

父は牧場の実習生や従業員にも厳しかった。そんな父は、

──自分が出来ないことを厳しく言っても、人はついて来ない、

という考えを持っていました。馬の扱い方に一つとっても、父は誰にも負けない技術を持っていた。

動物は人を見ますから、新米の従業員だと暴れ馬は言うことを聞かない。ところが、父が手綱を持った瞬間、どんな暴れ馬でもピタッとおとなしくなり、何でも言うことを聞きました。

朝は3時ぐらいから牧場に出て自分も走り回り、馬場で馬のトレーニングをしたり。人に厳しい分、自分に対しては、それ以上に厳しい姿勢で生きていた父の姿を私は見て育ちました。

私は父に微塵も反発心が起きなかった。それは父自身の含めて、厳しさが中途半端なものじゃなかったからでしょう。父の厳しさは徹底していた。

もし、反抗をして父を怒らせたら、家族みんなに連帯責任が及びますが、それより父に怒られ叩かれると、申し訳ないという気持ちが私の中で先に立ったことで。

──こんなふうに育てた覚えはない。

父そうに思われることが、私は何より嫌でした。

庭で飼っているガチョウの世話や畑仕事の手伝い、厩舎の掃除等々、幼い頃から私がしなければならない仕事もたくさんありました。

「よくやっているな」

しっかりした仕事ができていると、たまに父がそう一言声をかけてくれる。普段、きつ過ぎる人だったので、父に喜んでもらえたことが、すごくうれしかったのを覚えています。

「泣けるうちは泣いた方がいい」って、母さん……

父が厳しかった分、母は子供たちをフォローしようという気持ちがあったと思います。牧場と子供たちだけのために生きたような母でした。割烹着姿で台所に立っている時も、モンペをはいて畑仕事をしている時も、学校から帰った私を笑顔で迎えてくれる時も、私にとって母はいつでも不思議なぐらい優しい存在の人でした。

「母さん、母さん」

従業員の人たちからもそう呼ばれ、慕われていました。

叱られても辛くても私は涙を流すことが許されず、たとえ泣いたとしても、私が泣きやむまで父にの怒りは収まりませんでした。でも母は、 

「泣けるうちは泣いた方がいい」って。

「人間っていうのは、本当に悲しかったり辛かったりしたら、涙が出ないもんだ」って。

幼いある日、何か無性に悲しくて、とても母に甘えたくて。涙が止まらなくなった時、私は布団にうつ伏せになり、「ウェーンウェーン」と駄々をこねるように泣きじゃくった。そんな私の横で、母は

「もっと泣ける、もっと泣ける」って。

泣き疲れるまで、笑顔で応援してくれた母の姿が、まぶたに焼き付いています。

多分、父も母も、涙も出ないくらいの悲しみや辛さを知っていたのでしょう。父方の祖父は明治の時代に、人里離れた山奥に入植をしました。

「何でこんな田舎に入植したのか」という父の問いに、祖父は、

「今を考えて入植するのは、開拓者といわない、百年先を考えてここに入ったんだ」

と、応えたそうです。

日本が貧しい時代に両親ともに農家で育ち、ナタで木を一本一本切って畑にして、北の大地で生き抜いてきた。3人兄弟の次男だった父は小学校も満足に通えず、小さい頃から行商をしたり、ものすごく働いたといいます。

「泣いても誰も助けてくれない。涙を見せる暇はなかった」

それは父と母の共通した言葉です。

祖父が入植した人里離れた山奥に、父が牧場を興して、いつしか近くには千歳空港も出来ました。

東京オリンピックの時に祖母を連れて上京し、国立競技場で開会式を一緒に見た。それは父にとって大きな親孝行だったんでしょう。それもあってか、東京オリンピックの開会式に感激して、その直後に生まれた私に“聖子”と名前を付けて。 

「オリンピック選手になるんだぞ、そのために名前をつけたんだからな」

物心つく前からそう父から言われ続けた私は、オリンピックが何かの職業だと思っていた。

「オリンピックになる」

幼い頃の私は、そう人に言っていました。

やがてスケート少年団に入り、オリンピック選手にという父の夢が私の夢にもなって。スケート場への車の送り迎えを姉がやってくれたり。”オリンピック選手へ“それは家族の夢のようになっていきました。

掛け値ない、初めての父からのほめ言葉。それは……

オリンピック選手になるために、私は中学時代からコーチの家に下宿をしました。目標に向かっている人間が、ふつうの高校生のように友だちと遊ぶなんてことは、許されないと私は心に決め付けていた。休みの日があると、何か悪いことをしているような感覚に陥ったものでした。

だから、高校3年の時に突然、呼吸が出来なくなる病に襲われ、病院に入院して酸素マスクをして。一時、生死をさ迷ったのは、発散する場がないストレスに身体が蝕まれたからでしょう。

「こんな体になるんだったら、もう止めたほうがいいんじゃないか………」

入院中に、父からそんな言葉をかけられた時は、父の性格からして本心からとは思えなかった。

──もしかしたら、試されているのかもしれない…

私はそんな疑いを抱きました。

退院をして実家に帰った私は、父が留守の間に母が止めるのも聞かず、トレーニングの現場に戻りました。

「せめてお父さんが帰ってから、決めてほしい」

母の言葉に、父だったら私の気持ちが分かってくれるだろうと思った。事実、家に戻った父は、私がトレーニングに戻ったと知って怒ることもなく、

「やっぱりオレの子だな」

そう一言、つぶやいたそうです。

脳裏に浮かんだのは、入院していた時に目にした重たい病気と闘い、一生懸命に生きる子供たちの姿──。努力したくても出来ない子供たちがいるのに、こんなことで音を上げていてはいけない。

何事も死ぬ気でやる、それは開拓に入った当時からの我が家の基本なのです。私はそんな気持ちでずっと育ってきたのですから。

選手時代の父は師匠のような存在でした。私は7回オリンピックに出場をして、引退をする時も、これといって父からの言葉は記憶にありません。多分、舞台は移ったけどまだまだだ、政治家として自分で納得のゆく仕事をしろと思っていたに違いありません。

97年、病気で先妻さんを亡くし、3人の子供がいる男性と結婚を決めた時、

「オレという人間の性格は知っているだろう。お前がオレに反対をされるような人間を選ぶとは思わない。信じている」

父にはそう言われました。

そうです。振り返ると、それが父の唯一のほめ言葉だったのかもしれない。(ビッグコミックオリジナル2003年3月5日号掲載)

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  • 橋幸夫「僕のデビュー曲『潮来笠』は忘れなかった。オフクロの認知症の症状、僕に何かを伝えたかったのだろう」(2/11)
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  • 地井武男「”堅物”、明治の人らしいそんな言葉がよく似合う親父、オフクロだった」(1/14)
  • 浅香光代「母さんが名付けてくれた”浅香光代“、男運もいいって、それだけは外れたけど」(1/7)

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  • 小田実「嫌なものは嫌だ、ただそれだけのこと。戦争の時代、親父は市民であり続けた」(12/24)
  • 藤村俊二「躾だけはうさかったオフクロ、親父の『良志久(らしく)』の掛け軸が意味するもの」』らしく(12/17)
  • 山城新伍「人間の存在は五分と五分、人はみな互角やというそれが親父の考え方だ。徳のある人だった」(12/10)
  • 島倉千代子「「人生いろいろ、いろんなことがありました」(12/3)

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2020年11月配信分
  • 田原総一朗/評論家「両親の背中、それは得がたい教育だった。人生は自分で作っていかなくては、親に教えられた」(11/26)
  • 尾藤イサオ「小さい頃、墓参りをよくした『俺のやっていることがうまくいきますように』と願いを込め、早世した親に手を合わせた」(11/19)
  • 北野大/明治大名誉教授・タレント・たけしの兄「「ペンキ屋を手伝った。人に頼まれると断れないのは僕も親父にそっくりだ」(11/12)
  • 小沢昭一/俳優・サブカルチャー評論家「両親と生きたガチャガチャした”場末“の街の思い出は僕の”栄養ドリンク“だ」(11/5)

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2020年10月配信分
  • 仲代達矢「体がでかいのは親父譲り、声のでかいのはオフクロ譲り。“うちは三色アイスみたい”仲のいい兄弟とそんな話をする」(10/29)
  • 小林カツ代「 “一生懸命 やってる姿がたまらん”ポロポロ泣く情にもろい父の戦争体験、心に刷り込まれています」(10/22)
  • 長門裕之「僕たちファミリーはお互いに役者として家族の繋がりがあった」(10/15)
  • 津川雅彦「親父には役者根性のようなものを教わった。愛情はその分量を語れない、それはオフクロに教えられたことだ」(10/8)

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image by: 橋本聖子オフィシャルHP

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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