米アフガン撤退で思い出す、ベトナム戦争「アーミテージ氏の勇断」

 

南ベトナム海軍が艦艇90隻に海軍関係者やその家族ら2万人以上を乗せてコンソン島に集結していたとき、米政府はベトナム人協力者をそのまま見捨てようとしましたが、アーミテージ氏は米海軍のたった一人の代表として指揮をとります。航海に耐えられそうにない60隻を廃棄して全員を32隻に集め、国防総省に緊急電を打って水と食料を積み込ませ、フィリピンに向けて脱出させたのです。

フィリピンのスービック湾で上陸を拒否されると、アーミテージ氏はスービック基地司令官やフィリピン当局に掛け合って、上陸させることに成功しました。のちにアーミテージ氏は「事前に許可を求めるより、独断でやったあとに謝ったほうが楽だ」と述懐しています。

アーミテージ氏は1945年4月マサチューセッツ州ボストン生まれ。67年にアナポリス海軍兵学校を卒業し、海軍少尉としてベトナム戦争に従軍しました。1973年1月にベトナム和平協定(パリ協定)が成立すると、それに失望して海軍を除隊しますが、米駐在武官事務所の顧問としてサイゴンにとどまりました。このときCIAの「フェニックス計画」(農村部のベトコン工作員を排除する特殊作戦)に関わったともされますが、私には「小さな船の部隊を指揮していた」と話していました。

その後、いったんワシントンに戻りますが、75年3月に北ベトナム軍が総攻撃を再開すると、国防総省の依頼で4月にベトナムに戻り、米軍に協力したベトナム人の救出を決行します。まず、ビエンホア空軍基地にヘリで乗り込み、砲火の中で機密保持のため基地内の機器を破壊、30人の南ベトナム空軍将兵とともに脱出したのです。アーミテージ氏は2度にわたってベトナム人協力者を脱出させた訳です。

その後は国防総省情報部員としてテヘランなどで勤務し、ドール上院議員の補佐官などをへて、81年にレーガン政権の国防次官補代理(東アジア・太平洋地域担当)、83~89年に国防次官補、2001~05年1月にブッシュ政権の国務副長官を務めています。アーミテージ氏が米政府の要職を歴任したこともあったのでしょう。現地協力者を見捨てないことが米国への世界の信頼を高めるという考え方が広がっていきます。

今回のアフガンからの協力者の脱出の背景には、1975年春のベトナムの教訓があったことは知っておいてよいでしょう。イラク南部に自衛隊を派遣した日本政府ですが、現地協力者へのアフターケアは充分にできているでしょうか。(小川和久)

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地方新聞記者、週刊誌記者などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。国家安全保障に関する官邸機能強化会議議員、、内閣官房危機管理研究会主査などを歴任。一流ビジネスマンとして世界を相手に勝とうとすれば、メルマガが扱っている分野は外せない。

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