「本物」だから為せる技。なぜ坂本龍一氏の作品は世界で通用するのか?

 

「全てが音楽のために設計されている」という感動

個人的な感慨はともかく、コンサート自体には大変にビックリしたというのが正直なところであった。キーボード奏者として70年代に同氏が見せていた素晴らしさには磨きがかかり、自作と言うことを越えてとにかく圧倒的なピアノだったからだ。『灯ともし頃』のオルガンに見られた確信に満ちた長音の表現はグランドピアノでも同じであったし、『グレイ・スカイズ』の確信に満ちたリズムは、この時の自作でもより研ぎ澄まされたように聞こえたからだ。それ以前の問題として、キーボード奏者いやピアニストとして、坂本氏のメカニックや表現は卓越していた。

曲にも驚かされた。映画音楽などでの坂本氏のアプローチは、「前衛性」と「分かりやすさ」のブレンドの妙にあるのではないかという印象で見ていたのだが、実際にオリジナル曲を一晩通しで聴いた印象は、そんなものではなかった。21世紀の現代を代表するピアノ曲として、どの曲も歴史に残る水準のように感じられたからである。

何が素晴らしいかというと、私の感じたのは二点。一つは、例えば“hibari”のような短いフレーズが何度も何度もリフレインされる曲に見られる設計の精密さである。こうした筆法というのはミニマリズム(極小主義とか最少主義と訳されることが多い)と言われ、シンプルな点や線で抽象化した絵画や彫刻のように、洗練された静謐さなり、過剰さへの否定などを「美」とする考え方に近いと思われる。

だが、同時代のミニマリズムの作曲家として有名なフィリップ・グラスの作品などと比較すると、坂本作品は

  1. 音型が極めて抽象的でありながら自然の音に近いので特定の感情や文化からは中立
  2. それを繰り返すことによって抽象的な世界へ聴衆を連れて行くが決して過剰感はない
  3. フレーズに僅かなゆらぎ(変奏)を与える表現が極めて緻密

というような点において、より作品としては高度という印象を持った。高度というのは難しいというのではなく、良い曲という意味である。

もう一つは「全てが音楽のために奉仕している」という点だ。例えば、オープニング・ナンバーであった“glacier”では坂本氏はいきなりヤマハのフルコンサート・グランドに手を突っ込んで「内部奏法」を始めた。だが、それは20世紀の「前衛音楽家」に見られたパフォーマンスのためのパフォーマンスではなかった。ピアノの弦から擦弦音を引き出したり、ピックで弾いたりして得られる音を坂本氏は駆使して、幻想的で静謐な音楽を作りだしていったのだった。また次の曲ではいきなり鍵盤を使った通常のピアノの音に回帰する、その際に観客が改めて「ピアノの音」を意識的に再発見できるという効果もあり、全てが音楽のために設計されているという感動があった。

ナンバーが進むにつれて、電気的に駆動される二台目のピアノと、坂本氏の弾くピアノの連弾という趣向も出てきたが、これもパフォーマンスではなく、曲想にマッチした響きの充実が設計されているのが明白であった。曲によっては「複雑な社会における問題解決は全ての人の声を聞くこと」というようなメッセージが背景に表示されたり、抽象的なスライドが映写されたりもしたのだが、そうしたメッセージや写真は「難しい音楽を理解させるための補助的情報」でもなければ「メッセージを訴えるために音楽を使っている」わけでもなかった。メッセージやイメージが音楽に奉仕して、表現として一体化しているだけであって、その統合性のスムースさにも明らかな「美」が感じられた。実際に収録した自然音とのコラボも、同じように溶け合いの感覚が素晴らしかった。

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