よく考えてみるまでもなく、あいつを好きでないのは私であって、虫ではないのに、なんでこんな表現をするのだろう。「あいつは嫌いだ」という直接的な表現を避けて、嫌いを虫に託して婉曲に表現したと考えられないでもない。「嫌い」というのは、ネガティヴなコトバなので、私の体の中に棲んでいる「虫」が好かないので、私自身はそれほど嫌いでないという言い訳を言外に表現しているのかもしれない。したがって「好き」というポジティヴなコトバに関しては、「虫が好く」という表現は聞かない。
しかし、婉曲に表現したわけではなくて、本当に嫌いなんだという時も「虫が好かない」という表現を使うわけで、この場合「虫」とは、私とは別の「私」なのであろう。西洋的な考えでは自我は一つで、私は私だが、日本人は必ずしも自我は一つではなく、意識上の私以外にも、意識下の私、あるいはさらに深層の私、といった具合に私には分身がいて、そういった潜在的な私の分身を「虫」と表現したのかもしれない。
これと似たような表現に「腹の虫が治まらない」というのがある。私自身は、何とか我慢できるのだが、お腹に棲んでいる「虫」が怒っているので、収まりがつかないという事だ。「虫の居どころが悪い」という表現も、対外的には、私は機嫌がいいように取り繕ってはいるが、「虫」の機嫌が悪いので、なんとなく元気が出ないという事だ。こうなると、私よりも「虫」の方が、本当の私なのではないかと思わないでもない。
「浮気の虫が目覚めた」なんて表現もある。あなたが浮気したいだけで、虫のせいにしているんじゃねえよ、と思うけれども、理性ではどうにも止まらない欲望を「虫」と表現して、多少とも後ろめたさを軽減しているのかもしれない。「塞ぎの虫にとりつかれた」人は、現代風に言えば鬱病だけれども、「虫」のせいじゃしょうがないよと言って、原因を虫に転嫁しているのだろう。
昔は、寄生虫が体の中に棲んでいて悪さをするのは普通の事だったので、そういったタイプの虫にちなんだ常套句もある。一番有名なのは「獅子身中の虫」だ。組織に忠誠を尽くすようなそぶりをしているが、いざとなった時に反旗を翻して、組織を破滅に陥れる反乱分子の事だ。人類の政治史を鑑みても、外敵によって滅ばされるのと同じくらいの頻度で、国家権力は、獅子身中の虫によって滅ばされたと思われる。(一部抜粋)
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