フリースクールを否定した市長“謎発想”の正体。警察独特の「真っ直ぐな正義感」とは何か?

 

「自動車の運転は禁止行為」と言い放った警察幹部

ですが、怖いのは、もしかしたら職質をして「自家用車のトランクの懐中電灯を摘発している」警察官が、「真っ直ぐな正義感」でやっているという可能性です。だとしたら、これは本当に怖いです。本当に社会に脅威を与える犯罪者の摘発や、犯罪の防止とするにはコスパの悪すぎる摘発をやっているのなら、そして警察の悪印象を一般市民に広めているのなら、社会には大きなマイナスだからです。

この小椋市長も、もしかしたら憲法の教育の義務、そして教育基本法などを勉強して、既存の判例などを反映させると、「義務教育の実施は国家の根幹に関わる」という「真っ直ぐな正義感」を信じて疑わないようになっているのかもしれません。だとしたら、そのような発想法はどうして可能になるのか、真剣に調査する必要があると思います。

バカにしているのでもないし、批判して済まそうというのでもありません。どうしてそういった発想法になるのか、良くわからないのです。1つの「たとえ」としては、国家にとって警察は「風紀委員」のようなものだということかもしれません。ですが、「風紀委員」に象徴される統制のための権力行使が快感だというような稚拙なものでもないようです。

例えば、昔、運転免許の試験を受けに行ったときに試験場で警察幹部の挨拶があり、その内容に違和感を持ったことがありました。その警察幹部の発言は今でも覚えていますが、

「自動車の運転は危険であり禁止行為です。ですが特別に試験に合格した者だけに、免じて許すということで、免許が与えられます」

というものでした。免許という言葉の語源についてウンチクを言っているのではありませんでした。本当に「禁止行為」があり、それを「免じて許す」のは自分たちだという強い自負が感じられたのです。

調べてみると、「道路交通法(第84条1項)には「自動車及び原動機付自転車(以下「自動車等」という。)を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許(以下「免許」という。)を受けなければならない」という条項があって、これが運転免許の根拠法とされています。

ですが、「まず運転は禁止行為」だなどとは法律には書いてありません。ということは、人間の行動は自然法として、あるいは常識的なコモンセンスとして自由であり、けれどもパワーのある重たい自動車を勝手に運転すると危険なので法律によって私権が制限されている、法律がそのような建付けであるのなら理解できます。

ところがその警察幹部は「自動車の運転は禁止行為」であるなどと平然と言い放つのです。これは、ちょっとロックやルソーとは違うと思ったのを覚えています。では、仮にそうだとして、それは何なのか、例えば大宝律令まで遡るのか、それとも明治時代の大陸法の猿真似がルーツなのか、どうなのでしょうか?

この記事の著者・冷泉彰彦さんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • フリースクールを否定した市長“謎発想”の正体。警察独特の「真っ直ぐな正義感」とは何か?
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け