台湾農業の発展に寄与した人物の名は磯永吉と末永仁。この二人について記した黄文雄の著書の一部を以下に抜粋します。
台湾の米生産は、日本の領台時代に入ってから4倍以上になり、それが台湾の人口増加につながった。それ以前の台湾は18世紀末から人口過剰で深刻な食糧不足の飢饉の島だった。「飢饉の国」といわれる中国からも食料輸入したことさえあった。
台湾の米作が飛躍的に伸びたのは、近代農政と農業、農産物、農地の改良など理由は多々あったが、もっとも大きいのは、米作の品種改良に成功し、「蓬莱米」をつくりだした磯永吉、末永仁の二人のおかげである。
彼らは今でもずっと台湾人から敬愛されている。日本の農業、農法を台湾だけでなく、朝鮮、満州、中国にまで教え、そして伝え、その貢献は実にはかり知れないものだ。たとえば朝鮮半島は有史以来、人口は700万前後が限界だった。「春窮(チュングン)」といわれる飢饉は李朝時代の「常識」だった。だが日韓合邦の時代に入ってから米の生産量も人口も倍増した。江戸時代以来の日本の農法が各国へ伝わったことが、アジアの近代農業を変えたともいえる。
日本領台当初の台湾の米作付面積は、約20万余甲(1甲=2,934坪)で、収穫量は150万石(1石=150キロ)に過ぎなかった。1899年になると作付面積36万余甲、収穫量250余万石となり、1904年には収穫量415万9,000石と増加している。
34年の作付面積は68万7,600甲、収穫量は908万8,000石となっている。これほど収穫量が増える前は、人口増による米不足が発生し、輸入に頼らざるをえない状況だった。たとえば、1888年に中国から輸入した米は4万6,800担(1担=60キロ)、90年は3万7,000担であった。
日本領台初期、台湾の米作の単位面積における収穫量は、当時の日本と比べると極めて少なかった。当時の日本は1町歩(=3,000坪)あたり平均17余石の収穫があった。しかし、台湾では年に二毛作や三毛作ができるといっても、1899年の数字を見ると、1甲当たりの収穫量の平均は5.688石で、日本の約3分の1に過ぎない。この状況を改善するため、台湾総督府が行った品種の改良、施肥の普及、灌漑の完備、土地の改良などにより、台湾の米収穫量は年々増加していった。
それまでの台湾の在来米は品質が粗悪で、頭痛の種は「1升の玄米の中に、赤米が2,500~3,000粒も混じること」と言われていた。当時の在来米は400余種もあったと言われているが、これらの種類に対して品種改良を繰り返し、1920年代に入ってついに完成した品種が蓬莱米である。
蓬莱米の開発者である磯永吉は1886年、広島県深安郡(現在の福山市)の生まれである。1911年東北帝大農科大学を卒業し、その翌年、台湾総督府農事試験場に技手として赴任した。
14年技手から技師に昇進し、19年に欧米へ留学、農業品種改良技術を取得している。磯は台湾で47年間も農業研究と米の品種改良に努め、台湾農業に多大な貢献を果たした。
(黄文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間書店より)
この記事の著者・黄文雄さんのメルマガ